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2006-10-18

(15)参加してきました3

仏生山の語りべ「橋本タカ子」の時ばなし(10月15日実施)
大正15年4月1日生まれのタカ子さんは仏生山の生き字引!
なんでも知ってるなんでも調べる好奇心旺盛なおばあちゃま。

そんなタカ子さんの時ばなし・・・今回のテーマはずばり
「法然寺」高松松平藩の菩提寺であります。

広大な敷地(現在は2万5千坪・・・頼重公が作られたときは3倍の
6万544坪もあったとか)には歴史的に価値のあるものばかり
法然上人みずからが彫ったという木彫り法然像、頼重公の当時の
姿を彫った木像、三仏堂内には寝釈迦と鳥獣人物52類を立体的に
再現した涅槃世界・・・。葵の御紋がいたるところにあるお寺の
中はお宝いっぱい歴史がいっぱい!まさにここは
讃岐のルーブル美術館!」とひとり叫んでおりました。
またタカ子さんのお話しがおもしろいのなんのって
ついつい時間を忘れて聞き入っておりました。

今回のツアーは1回限り・・貴重な1日でございました。
20人近くの方の参加がありましたがみなさん大満足。
有意義な秋の1日でした!




帽子をかぶり紫のジャケットを着た女性が橋本タカ子さんです!!
帽子をかぶり紫のジャケットを着た女性が橋本タカ子さんです!!

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

tag : 橋本タカ子 タカ子 讃岐のルーブル美術館

2006-10-17

(14)七代藩主 松平頼起(よりおき)欽公

一、災害との戦い
 松平頼重が高松に入封して以来、十一代二百二十七年間に七十六回の自然災害を経験している。単純計算で、三年に一度災害に見舞われその九割が讃岐特有の旱魃でした。

 高松藩の、旱魃対策はため池の新設・修築、さらに新田開発・塩・砂糖などの殖産興業策などの積極策と節約令など支出を制限する消極策のどちらかでした。

 頼起は、父の頼恭や兄の頼真らの災害対策が効を奏していた時期に藩主についていた為、恵まれていました。それと共に、別所旧九兵衛包好のような模範庄屋がおりリーダーシップを発揮し、農民たちの生産意欲を持続させた。

 頼起が高松藩を継いだ翌年平賀源内が亡くなり、三十四才から十二年間藩主の座にあった。(分別盛りの殿様) 就封後初めてお国入りした頼起は、藩士たちに祝いとして百石に付き三石を与えるというふるまいをしている。

 また全国的に「天明の飢饉」といわれる時期に、頼起四十一才のとき宗家の水戸家から十七才の豊姫が輿入れし、その祝儀に農民に米や栗九千六百石を与えている。

 その二年後、三年続けて「五穀実らず」という大干ばつに襲われた時も藩が五千五百石領民に貸し与え、内三千石は三ヶ年の分割返済で、残り二千石は返済棚上げという大英断を実施した。

 この頃、讃岐出身の柴野栗山が老中松平定信のブレーンとして幕府に仕え活躍する。

 頼起は、性格が仁慈で欲が少なく、柔軟なところがあったが、武術は新田宮流の居合いの奥義を極め、趣味は義太夫・浄瑠璃を好み、能・猿楽は江戸や大坂にお抱えの太夫や狂言師がいた程でした。

 松平家十一代の内、六代~八代は讃岐の血流で占められ、農民たちに、極めて寛大であった。頼起は生来穏やかな殿様で、弟の大久保一学(国家老の大久保家に養子)は、横暴な振る舞いが目立った。家老として独裁色を強め、藩内に不穏な噂が流れ、お家騒動の一歩手前のところまで来ていたともいわれた。

 頼起は、四十六才で死去するが、災害多く多難な時期ではあったが、幸いにして藩に蓄積があったので平穏な人生を過ごすことができた。


父や兄はありがたい!  余は民に優しいぞ


七代、松平頼起 生没年:1747-1792
父:讃岐高松藩五代藩主 松平頼恭
幼名:鼎之助、帯刀
1780-1792 讃岐高松藩七代藩主
1787 従四位上権中将
正室:述姫(父:常陸水戸藩六代藩主 徳川治保)
1775-1829 (養子)頼儀

tag : 天明の飢饉 頼起 大英断 讃岐の血流 別所旧九兵衛包好 柴野栗山

2006-10-17

(13)六代藩主 松平頼真(よりさね)定公

一、生い立ち
 頼真は先代頼恭の長子で、江戸に生まれた。二十九才で父の跡を継ぎ讃岐守に任ぜられた。翌年領内は大風洪水による大被害にあったが、藩士の禄を旧に戻し、民政の復興に力をそそいだので領内に活気がよみがえった。

二、学問の振興
 頼真は、父と同様に学問の振興に力を入れた。苦しい財政の中、中野天満宮の北に、頼常が創建した旧こうどうのに倍する規模で学館を建設し「講道館」と号された。初代総裁の後藤芝山により「大学」が講ぜられる。以後毎月六回経書が講ぜられる。

 頼真は、学問文化に力をそそぎ、父の遺志を受け継いで民政を行ったが、その成果を見ずに三十八才で江戸で死去した。藩主としての期間は、わずか十年であった。

父の跡を受け継ぎ 頑張るぞ!



飛来峰から掬月亭を望む

南湖明月の夜 此に来って好し船を行(や)らん
恍として似たり仙客を挈(たず)え  槎(さ)に乗る雲漢(うんかん)の辺(ほとり)
栗林園二十有詠(青葉士弘)

※槎=いかだ
※偃月橋の向こうに見えるのが、栗林園の顔である仙客を待つ『仙磯の岩』。南湖は、仙磯をあらゆる方向から眺めるとよい。造園者『西島八兵衛』の気持ちが伝わってくる。

六代、松平頼真 生没年:1743-1780
父:讃岐高松藩五代藩主 松平頼恭
幼名:軽千代
1771-1780 讃岐高松藩六代藩主
正室:薫姫(父:紀伊和歌山藩六代藩主 徳川宗直)
側室:中山氏
1775-1829 頼儀






テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

tag : 講道館 後藤芝山 頼真

2006-10-15

(12)五代藩主 松平頼恭(よりたか)穆公(ぼくこう) 中興の祖

一、生い立ち 

二十九才で高松藩主(祖は水戸徳川頼房の三男・奥州守山藩二万石に生まれた)
 幼い頃から文武に励み、馬術・水泳が得意であった。

二、中興の祖

 政治の模範は、実父頼貞と二代藩主頼常で、特に頼常のように先ず自分が範を示し、家臣・領民にも行わせる事を心がける。

 三代頼豊の時代から天変地異が続き、頼恭の治世中も水害・旱魃に毎年のように見舞われた。その中、自ら食事も、一汁一菜を原則として倹約を守り、藩士の禄を再三再四減じ藩費を切り詰め、なし得る限りの農民救済に努めた。

 儒者後藤芝山に、後に朝廷の儀式を知る為に貴重な資料となる「職原鈔考証」を撰述させる。

 崇徳上皇六百年御忌に白峰御陵の修理。

 租税の増収の為、新田の開発を奨励、稲作に不向きな土地を開墾させ、棉栽培・甘藷栽培などを行わせた。香川郡池内・西庄・岡本の畑地耕作は綿作地帯で綿地・綿畑・綿作の地名が残る。
 
 この頃も、漁場争いが絶えず、特に坂出沖の金手漁場は、高松領と塩飽天領の境界に位置し、その解決に江戸評定所にて三年の後幕府の寺社奉行(大岡越前)ほか十一人の評定衆が署名し、八人が捺印している、八判という裁定書を残している。

三、人の登用
 平賀源内-薬坊主に任じ、栗林荘に薬草を栽培させ、甘藷キビからの精糖法を研究させた。
 梶原景山-山田郡西潟元村に塩田を築かせ、「亥ノ浜」塩田三十町を完成させた。
 向山周慶-砂糖を藩に献じ、精糖奨励の必要を建言した。
 後藤芝山-父は、頼豊公の時代に家臣の減により香西の芝山麓で帰農した。芝山は漢学を守屋義門に学び、頼恭公にとりたてられ江戸に学び、高松で藩校の創設を建言した。六代頼真のとき、中野天満宮の北に藩校の講道館と名付けた。
 青葉士弘は、経書を講堂で講じた。頼豊・頼桓・頼恭の三代に仕え、書も能くし、詩もつくった。藩主に講釈を勧め、記録書総裁になった。
 他に、菊池半隠・岡井氷室・菊池黄山・菊池五山・岡井嵰洲・岡井赤城・柴野栗山・中村文輔・岡長洲・後藤漆谷・奥村淡斎らを輩出した。
 名家老の輩出-筧速見・西尾縫殿・木村季明

頼恭公の献立『霜月の膳』

頼恭公の献立『霜月の膳』2

頼恭公の献立『霜月の膳』3


頼恭公の献立『霜月の膳』-ANNRIさんが投稿してくれました

政は、優秀な人材の登用じゃ!



鹿鳴原より小普陀を望む

棹(さおさ)して過ぐ睡龍潭(すいりゅうたん)  
朦朧(もうろう)昼開かず
雲雨をして至らしむる莫(なか)れ
是(これ)珠(たま)を採りて来らず

栗林園二十有詠(青葉士弘)

五代、松平頼恭 生没年:1711-1771
父:陸奥守山藩初代藩主 松平頼貞
義父:讃岐高松藩四代藩主 松平頼桓
幼名:帯刀、大助
1739-1771 讃岐高松藩五代藩主
1760 従四位上権中将
正室:(父:肥後熊本藩四代藩主 細川宣紀)
1743-1780 頼真
側室:荒川氏
1747-1792 頼起
頼昌
頼周
頼裕
娘(従二位大納言 徳大寺公城室)
娘(宗義暢室)
娘(堀田正順室)
娘(上野館林藩主 松平武寛室)
娘(酒井忠以室)
娘(小笠原長堯室)
娘(戸沢正産および堀長教室)

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

tag : 平賀源内 梶原景山 向山周慶 後藤芝山 青葉士弘 名家老 頼恭

2006-10-14

(11)四代藩主 松平頼桓(よりたけ)懐公

一、業績 
  
 
 藩主には、十六才で頼豊の息女春姫を稼し嗣となったが、度々飢饉や財政危機に遭遇し、藩は極度の窮乏状態であった。元禄十七(1704)年から三十一年続いた天変地異と先代の失費の後始末に追われました。

 頼桓は、二代頼常の政治を模範とし、頼豊が残した膨大な借財返却のため、財政緊縮による倹約政策として『倹約令』を出した。

 また、藩士の減禄を行い、奢侈を戒め身をもって範を示した。武士の本質は文武両道と心得、先代の道楽であった力士の住まいを除き、中野の講堂を修復、藩学を復興した。藩儒の青葉士弘に経書の講義を命じ、内容がわかりやすく、聴講者も増加した。

 しかし頼桓は、疫病にかかり二十才の若さで亡くなる。藩主になってわずか四年であった。


天変地異と先代の失費の後始末~大変だ





掬月亭より涵翠池(かんすいち)左、柘植を眺める

:掬月亭より涵翠池・紫雲山を眺む

池は千山の翠を涵(ひた)し  雲樹清流に映ず
時に春風の転ずる有り 遊魚枝上に浮ぶ

栗林園二十有詠(青葉士弘)

四代、松平頼桓 生没年:1720-1739
父:松平頼熙
義父:讃岐高松藩三代藩主 松平頼豊
幼名:亀之助
1735-1739 讃岐高松藩四代藩主
正室:春姫(父:讃岐高松藩三代藩主 松平頼豊
1711-1771 (養子)頼恭

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

tag : 頼常 青葉士弘 頼豊 春姫 倹約令 頼桓

2006-10-14

(10)三代藩主 松平頼豊(よりとよ)恵公

一、生い立ち

 松平頼重の孫で、頼重と側室松野の間に生まれた頼侯(五千石)を父に持つ。
 史家の中山城山は頼豊を評して『公のひととなりは、奢侈を好み、力士を養いき、是を以て国用足らず、大いに土民を苦しめたり』としている。

二、華やかな生活 

 松平頼豊は在国中、政治の一切を大老の大久保主計に委ね、主計は徳川頼房の曾孫にあたる人物で頼豊が江戸から帰国した船が高松に着いても出迎えず、政道向きでない藩主に代わり一切を切り回した。

 歴代の藩主は、在国中は城中にいて時に栗林荘に出向いたが、頼豊はほとんど栗林荘に住んだ。掬月亭や総檜造りの奥居間もこの頃の建築で、障子一枚に百両かけたり、牡丹の花を寒さから守るための覆いに三百五十両もの費用をかけたそうです。
 庭園好きの頼豊は、江戸・小石川の水戸徳川家の後楽園の大改修にも従事、後楽園を讃岐風にしている。

三、漁場争いと名代
  
 天領の小豆島、備前の国との大槌島などとの漁場争いもこの頃です。この裁判には大岡越前守も 関わっている。

 また、頼豊は、将軍家の名代として京都に二度上洛している事から公人としては日のあたる場所にいたと思われる。

 ただ、晩年には天変地異・疫病の流行により思うようにはいかなくなる。

世は、栗林荘が大好きじゃ。小石川後楽園も栗林荘風にするぞ


掬月亭(北斗館)二の間より仙磯の岩を望む


湖上清風来る  細雨夜来やむ
此の高楼の中を愛し  座して東山の月を掬(うつ)す

栗林園二十有詠(青葉士弘)


三代、松平頼豊 生没年:1680-1735
父:讃岐高松藩厄介 松平頼侯
義父:讃岐高松藩二代藩主 松平頼常
幼名:軽千代
1704-1735 讃岐高松藩三代藩主
1716 従四位上権中将
正室:(父:大納言 正親町実豊)
側室:湯浅氏
1705-1730 徳川宗堯(水戸徳川家へ)
頼治


清玉尼
春姫(讃岐高松藩四代藩主 松平頼桓室)
娘(樋口基康室)
友姫(陸奥会津藩四代藩主 松平容貞室)


1720-1739 (養子)頼桓
松平頼芳
父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
帯刀
妻:
頼熙
松平頼熙
父:松平頼芳
志摩
厄介
側室:佐野氏
1720-1739 頼恒
1721-1780 蜂須賀宗鎮(蜂須賀氏へ)
側室:渡辺氏
1737-1754 蜂須賀至央(蜂須賀氏へ)

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

tag : 中山城山 大久保主計 栗林荘 大岡越前守 漁場争い 松平頼豊

2006-10-14

(9)二代藩主 松平頼常(よりつね)節公

一、名刀真守(さねもり)の物語 

 松平家には、名刀真守があり重要文化財となっています。真守は、平安時代の名工・真守が作った太刀です。
 初めこの名刀は、新羅三郎義光の佩刀だったが甲斐武田家に伝わり、武田信玄や勝頼の愛刀であった。後に徳川家康に伝わり『徳川三名刀』の一刀でしたが、家康は末子の頼房に与え水戸家の家宝としていた。ところが水戸藩主となった徳川光圀は自分が弟なのに水戸本家を継いだことを悩み、この名刀を兄の頼重に譲った。以来、高松松平家の家宝となっている。

 元禄年間、将軍綱吉の側近の柳沢吉保は、甲斐武田の出と称し、松平頼常に名刀・真守を見せて欲しいと言い、そのまま返さず、太刀の脛を黄金で飾り、武田菱を持って作り変え自分のものとした。
 頼常は、将軍の誉れ高い吉保の怒りを恐れ三千の家臣の生活も考え、太刀はとられたままになっていた。やがて綱吉の没後、吉保の権勢も衰えたので、頼常は吉保の子・吉里に真守の返却を申し入れしたが、拒絶された。ところが御三家の水戸徳川綱條は、柳沢氏に命じて頼常に真守を返却させたのである。

二、頼常の生い立ち

 頼常は光圀の長子だが、頼常だけしか子がなく、出生には光圀と同じ秘密があった。光圀は、自分が次男で水戸家を継いだことで、正室にも自身の子を作らせなかった。正室が二十一歳でなくなった後も正室も側室も持たなかった。

 ところが、こんな光圀も若い頃侍女の玉井弥智との間に一子をもうけた。光圀は、家臣の玄蕃に我が子を水にするよう指示したが、光圀に知らせず弥智をかくまった。その後、この子は鶴松と名づけられ、家臣の三浦始が引き取り京に移し、翌年叔父の頼重の高松城に連れて来られ、東の丸・御茶屋御殿に入り頼重の庇護で育てられました。

 水戸藩では、初代藩主頼房が死去、将軍家綱は光圀に登城を命じ、光圀は兄頼重・弟頼元・頼隆を集め自分が水戸家を継ぐ条件に、世継に兄頼重の子・松千代を要望、頼重が固辞したところ、光圀も席を立ってしまい水戸藩のためと弟達からの進言で、頼重も折れ松千代・綱方の世継が決まる。また、光圀の強い希望で、綱方の弟采女・綱條も水戸徳川家に養子入りした。光圀の頑なな性格がよく出ている。長男綱方が疱瘡で急死の後、第三代徳川綱條が誕生する。

 頼常は、二十二才のとき頼重の隠居とともに高松藩二代藩主となるが、実際は病気がちの頼重に代わり十八才から政務を司った。頼常は、光圀と頼重の政治姿勢を受け継ぎ、名君といわれる善政を行なった。
 しかし、藩の財政は頼重時代の城郭拡張・大修理・寺社の造営・江戸城西の丸普請の手伝い等に莫大な支出のため困窮したため、家臣の録の削減や倹約を実行し藩の勝手元を立て直した。

 また、栗林荘失対事業は特筆すべきものがある。水害・干害に困窮する領民のため、栗林荘の池をさらえ山をつくり、これに従事する人々に金銭や穀物を与え、領内の奇石珍木を集め、それを搬入する人々に賞を与え困窮を救った。このときの池の浚せつで近辺数か村の灌漑が出来ました。

そして、頼常四十四才のとき忠孝を基本におき、親不孝は俸禄を与えず不忠者は厳罰に処するとし、不必要なもの、華美なものを慎み、冠婚葬祭も簡略化するようにきめた『非常倹約令』を改正・制定した。
 是により、頼常から第三代頼豊には、二十万両もの資金が譲られる事になる。

三、学問の奨励

 頼常は、中野天満宮の南隣に講堂を作り、藩士及び庶民の優秀な者に経伝を講習させ、儒者松下見林・菊池武雅・岡井郡太夫・十河順安・根本弥右衛門・雨宮三哲を厚遇し学問を奨励した。
 頼常が将軍綱吉に儒学を講じたとき、綱吉はその学徳をたたえ『進徳』の二字を贈った。学問好きが幸いして綱吉の信任を買ったのである。


天性寡黙、直温、寛栗、好学不惓聞義能徒



二代、松平頼常 生没年:1652-1704
父:常陸水戸藩二代藩主 徳川光圀
義父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
幼名:鶴丸
1673-1704 讃岐高松藩二代藩主
従四位上権中将
正室:(父:酒井忠清)
1680-1735 (養子)頼豊
松平頼侯
父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
讃岐高松藩厄介
側室:樋口氏
1680-1735 頼豊

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

tag : 真守 松平頼重 徳川光圀 失対事業 栗林荘 松平頼常

2006-10-14

(8)高松松平藩 系図

御紋-丸に三つ葉葵


初代、松平頼重 生没年:1622-1695
父:常陸水戸藩初代藩主 徳川頼房
幼名:竹丸、八十郎
1639-1642 常陸下館藩主
1642-1673 讃岐高松藩初代藩主
1656 従四位下権少将
1656 左京大夫
讃岐守
正室:(父:土井利勝)
綱方(義父:常陸水戸藩二代藩主 徳川光圀)
1656-1718 徳川綱條(水戸徳川家へ)
頼剛
頼侯
頼芳
糸(有馬頼利室)
長(従一位関白 鷹司兼熙室)

娘(肥後熊本藩三代藩主 細川綱利室、父:常陸水戸藩初代藩主 徳川頼房)
1652-1704 (養子)頼常

二代、松平頼常 生没年:1652-1704
父:常陸水戸藩二代藩主 徳川光圀
義父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
幼名:鶴丸
1673-1704 讃岐高松藩二代藩主
従四位上権中将
正室:(父:酒井忠清)
1680-1735 (養子)頼豊
松平頼侯
父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
讃岐高松藩厄介
側室:樋口氏
1680-1735 頼豊

三代、松平頼豊 生没年:1680-1735
父:讃岐高松藩厄介 松平頼侯
義父:讃岐高松藩二代藩主 松平頼常
幼名:軽千代
1704-1735 讃岐高松藩三代藩主
1716 従四位上権中将
正室:(父:大納言 正親町実豊)
側室:湯浅氏
1705-1730 徳川宗堯(水戸徳川家へ)
頼治


清玉尼
春姫(讃岐高松藩四代藩主 松平頼桓室)
娘(樋口基康室)
友姫(陸奥会津藩四代藩主 松平容貞室)


1720-1739 (養子)頼桓
松平頼芳
父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
帯刀
妻:
頼熙
松平頼熙
父:松平頼芳
志摩
厄介
側室:佐野氏
1720-1739 頼恒
1721-1780 蜂須賀宗鎮(蜂須賀氏へ)
側室:渡辺氏
1737-1754 蜂須賀至央(蜂須賀氏へ)

四代、松平頼桓 生没年:1720-1739
父:松平頼熙
義父:讃岐高松藩三代藩主 松平頼豊
幼名:亀之助
1735-1739 讃岐高松藩四代藩主
正室:春姫(父:讃岐高松藩三代藩主 松平頼豊)
1711-1771 (養子)頼恭

五代、松平頼恭 生没年:1711-1771
父:陸奥守山藩初代藩主 松平頼貞
義父:讃岐高松藩四代藩主 松平頼桓
幼名:帯刀、大助
1739-1771 讃岐高松藩五代藩主
1760 従四位上権中将
正室:(父:肥後熊本藩四代藩主 細川宣紀)
1743-1780 頼真
側室:荒川氏
1747-1792 頼起
頼昌
頼周
頼裕
娘(従二位大納言 徳大寺公城室)
娘(宗義暢室)
娘(堀田正順室)
娘(上野館林藩主 松平武寛室)
娘(酒井忠以室)
娘(小笠原長堯室)
娘(戸沢正産および堀長教室)

六代、松平頼真 生没年:1743-1780
父:讃岐高松藩五代藩主 松平頼恭
幼名:軽千代
1771-1780 讃岐高松藩六代藩主
正室:薫姫(父:紀伊和歌山藩六代藩主 徳川宗直)
側室:中山氏
1775-1829 頼儀


七代、松平頼起 生没年:1747-1792
父:讃岐高松藩五代藩主 松平頼恭
幼名:鼎之助、帯刀
1780-1792 讃岐高松藩七代藩主
1787 従四位上権中将
正室:述姫(父:常陸水戸藩六代藩主 徳川治保)
1775-1829 (養子)頼儀

八代、松平頼儀 生没年:1775-1829
父:讃岐高松藩六代藩主 松平頼真
義父:讃岐高松藩七代藩主 松平頼起
幼名:雄丸
1792-1821 讃岐高松藩八代藩主
1817 従四位上権中将
正室:藤(父:加賀金沢藩十代藩主 前田重教、義父:加賀金沢藩十一代藩主 前田治脩)
正室:(父:備前岡山藩五代藩主 池田治政)
側室:藤木氏
1809-1868 頼該 (左近)
1810-1877 頼胤
頼顕
忠民
娘(井伊直亮室)
娘(讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕室)
娘(板倉勝明室)

1798-1842 (養子)頼恕
松平頼該
生没年:1809-1868
父:讃岐高松藩八代藩主 松平頼儀
松平左近
妻:
娘(義父:讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕

九代、松平頼恕 生没年:1798-1842
父:常陸水戸藩七代藩主 徳川治紀
義父:讃岐高松藩八代藩主 松平頼儀
幼名:熊太郎
紀経
1821-1842 讃岐高松藩九代藩主
1837 正四位下権中将
正室:(父:讃岐高松藩八代藩主 松平頼儀)
頼熙(義父:讃岐高松藩十代藩主 松平頼胤)
側室:正林院 八重野(浅田氏)
1832-1912 松平勝成(伊予松山藩へ)
1834-1903 頼聡
大久保忠礼
娘(出羽米沢藩十二代藩主 上杉斉憲室)
娘(亀井茲監室)
娘(信濃松代藩九代藩主 真田幸教室)
1810-1877 (養子)頼胤
(養子)娘(父:松平頼該)
側室:野萱
1827-1842 武揚(石見浜田藩へ)

十代、松平頼胤 生没年:1810-1877
父:讃岐高松藩八代藩主 松平頼儀
義父:讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕
幼名:雄丸、都太郎、貞五郎
1842-1861 讃岐高松藩十代藩主
1857 正四位上権中将
正室:霊鏡院 文姫 徳川結子(父:征夷大将軍 徳川家斉)
頼温
竹雄丸
娘(大原重実室)
娘(松平頼策室)
頼熙(父:讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕
頼和(西条松平家へ)
1834-1903 (養子)頼聡

十一代、松平頼聡 生没年:1834-1903
父:讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕
義父:讃岐高松藩十代藩主 松平頼胤
幼名:万之助
1861- 讃岐高松藩十一代藩主
従四位上権少将
妻:井伊千代子(父:大老 井伊直弼)
徳川義礼(尾張徳川家へ)
頼壽

娘(伯爵 徳川篤敬室)
(養子)頼温(父:讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕)

松平頼壽 (明治時代)生没年:
父:讃岐高松藩十一代藩主 松平頼聡
伯爵
1903- 高松松平家当主
1933-1937 貴族院副議長
1937- 貴族院議長
妻:徳川昭子(父:常陸水戸藩十一代藩主 徳川昭武)
(養子)頼明
松平胖
生没年:
父:讃岐高松藩十一代藩主 松平頼聡
妻:
頼明
松平頼明
生没年:
父:松平胖
義父:伯爵 松平頼壽
本郷学園理事長
妻:
本郷学園理事長 頼武(子:頼治)



-世界帝王事典より

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tag : 松平 頼重 頼常 頼恭 頼恕

2006-10-12

(7)高松藩祖 松平頼重(よりしげ) 英公(えいこう)

一、生い立ち

 徳川家康の孫すなわち家康第十一男徳川頼房の長男で、同腹の弟に水戸藩主徳川光圀がいる。

 同腹の兄弟は、互いに子息を相手側に養子にやり相続している。

 頼重の母は、水戸家家臣谷重則の息女「久」のちの高瀬局。お久が身ごもったとき頼房は、兄の徳川義直(尾張)徳川頼宣(紀伊)の両者に子がなく自分も二十才の若さであったため、久の子を水にするよう指示したが、家臣の三木氏は頼房準母の英勝院に相談し、自分の別邸で出産させ、竹丸と命名され秘密裏に育てられた。

 のちに頼房が、二十六才のとき、久は再び懐妊、間もなく長丸(光圀)を出生するが、家臣の三木は、竹丸のことを気づかれるのを恐れ、京都の公卿滋野井大納言に預ける。

 京都では、天竜寺塔頭真乗院や慈済院に学問し、福寿院という無住寺で生活した。この天竜寺での生活が、頼重の人格形成に大きい影響を与えたと思われる。

 その後、十一才(1632)の時水戸から迎えが来て、水戸藩邸に入ったが実父の頼房と対面するのは、五年後のことでその時八十郎と名乗った。

 翌1638年八十郎は、頼房の長子として老中に挨拶、御三家の尾張・紀伊家とも対面し、右京太夫と名乗り江戸城に登城、三代将軍家光に拝謁した。翌年、常陸国下館五万石を賜り大名となり、松平頼重と名乗る。

 こうしているうちに讃岐生駒氏が、お家騒動で改易になり1642年頼重は、讃岐国で十二万石を与えられる。

二、高松での政治(主なもの)
 治水と利水
    -1644年に土管・木樋・竹樋を使った日本初の上水道の敷設。
    -城池(東植田町)、仁池(飯山町)、新池(香川町)、宮奥池(白鳥町)など多く のため池を造る。
    -高松東部の松島から潟元を干拓、新田を造る。

 寺社の再興
    -法然寺を建立、金刀比羅宮、白鳥神社と共に朱印地とする。
 


その他
 和歌を好んで作り、後水尾天皇の知遇を得て、歌稿の御校閲を賜り、公卿などとも歌詠応答を楽しんだ。
 国学と神道に通じた猪熊千倉を京より招き白鳥宮の神官とした。
 水戸の朱子学派の儒学者岡部拙斎を招いて講義を聴かせた。

初代、松平頼重 生没年:1622-1695
父:常陸水戸藩初代藩主 徳川頼房
幼名:竹丸、八十郎
1639-1642 常陸下館藩主
1642-1673 讃岐高松藩初代藩主
1656 従四位下権少将
1656 左京大夫
讃岐守
正室:(父:土井利勝)
綱方(義父:常陸水戸藩二代藩主 徳川光圀
1656-1718 徳川綱條(水戸徳川家へ)
頼剛
頼侯
頼芳
糸(有馬頼利室)
長(従一位関白 鷹司兼熙室)

娘(肥後熊本藩三代藩主 細川綱利室、父:常陸水戸藩初代藩主 徳川頼房
1652-1704 (養子)頼常

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2006-10-12

(6)参加してきました 2

10月11日水曜日たかまつ松平藩まちかど漫遊帖のツアー
「粋町の鮨をつまんで歩く夕暮れ」・・・いやぁ楽しかったですよ!
サブタイトルが~江戸風情・旦那遊びを極める~
高松中心街・・・そう昔は「花町」だったところを今「粋町(いきまち)」と呼びお寿司屋さんを巡ってみよう!というこのツアー!
こだわりの寿司店5箇所を1貫~2貫づつ頂くという贅沢さ!
最初は香川県歴史博物館で食&酢の蘊蓄をたんと仕入れて
粋町のお寿司屋さんへGO!
小松寿司~丁寧なお仕事


生粋の寿司職人さんのこだわりを聞きながら頂くお寿司
おいしさも勿論ですがありがたさが伝わってくるのです。
お寿司って本当に綺麗な食べ物なんだなぁといのも実感でした。
PSイケメンの若いすし屋さんもいらっしゃいました。
  「経験を笑顔とさわやかさでカバーします」との言葉がなんか
   いい感じでした!

瓦版~あん餅雑煮だよ~ん !


最後は讃岐名物餡餅雑煮!!これが老舗料亭「二蝶」でいただけます。
上品な白味噌まんまるのふんわか餡餅絶妙のバランスです。
こっそり教えていただきましたがその昔二蝶さんはお餅屋だったようです。おいしかったぁ・・・これで2000円安すぎる!!!


料亭 二蝶





20061018174733.jpg

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tag : たかまつ松平藩まちかど漫遊帖 花町 寿司 餡餅雑煮 二蝶

2006-10-09

(5)参加してきました!

10月8日日曜日に、まちかど漫遊帖「黄門様のお忍びある記」
に参加してまいりました。


知らなかったんです高松松平藩の初代藩主頼重公
水戸光国公のお兄さんだったなんて!!!高松黄門様
大変ゆかりのある町なんですね!

玉藻公園西門~商店街を通り~栗林公園までの約2.5km
時間にして2時間のテクテク町ぶら・・・

黄門様のお忍びある記~komoちゃんが参加しました!


日頃歩いている道なのになんと見落としていることが
多いことが、知ってますか?「片原町」の町の由来って??
知ってますか?なぜ高松の中心街にお寺が多いのか???
知ってますか?一子相伝の提灯屋さんが高松にあることを
そんなことがすべてわかるまちあるき!

お土産もらってうどんを食べて気持ちもおなかもまんぷくです!

10月29日 11月3日4日23日とありますよ!

讃岐の黄門様にも会えると思います・・・たぶん☆

※写真はお世話になった北谷さんと市民ツアープロデューサーのさん
でーす!楽しかったよ。


お世話になった北谷さんと崎さん

飛脚~わっせ・急げ・ワッセ・急げ・わっせ !黄門様のお忍びだ


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tag : 黄門様 高松 玉藻公園 頼重公 水戸光国公 北谷

2006-10-07

(4)高松松平藩のお話

松平藩のお話 - 讃岐のへぇ~塾ブログ 『讃岐の風土記』より 

 1.“讃岐高松二代目藩主は水戸黄門の息子”

 2.“茶道・千家と讃岐との深い縁”

 3.“柳沢吉保と讃岐高松藩との名刀をめぐる確執”

 4.“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主”

 5.“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟”

 6.“日本三大庭園より立派といわれる栗林公園

 7.“東照宮も左甚五郎の墓もある高松”

 8.“和三盆のふるさと讃岐”

 9.“松平定信のブレーンだった讃岐出身の儒学者”

10.“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技
術者で塩田の父”

11.“滝沢馬琴の親友だった高松藩家老”

12.“十七人のうち四人も人間国宝を輩出した讃岐漆器の技”

参照:讃岐の風土記 



http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-category-3.html


おれは高松の一心太助だ! 讃岐の魚は旨いよ!




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tag : 讃岐の風土記 水戸黄門 井伊直弼 徳川慶喜 栗林公園 和三盆 滝沢馬琴

2006-10-07

(3)まちかど漫遊帳「まちあるき」プラン

たかまつ松平藩 まちかど漫遊帳 2006

10/1(日)~12/2(日)
との~池ちゃんはどれに参加するのだろう。



 ~そぞろ高松ごゆるり参ろう

 1.黄門さまのお忍びある記【5話参照】

 2.屋島で考える松平藩

 3.片原町(耽溺)極小茶会

 4.地上113m「峠の茶屋」で一休み

 5.粋街の鮨をつまんで歩く夕暮れ【6話参照】

 6.城下の面影・昭和のにおい

 7.江戸モダンを感じる町 仏生山

 8.讃州さぬきの高松さまの城が見えます波の上

 9.仏生山の語りべ「橋本タカ子」の時ばなし

10.高松ご城下水物語

11.牟礼・松平ゆかりの地

12.牟礼・松平ゆかりの地

13.探訪 屏風絵に描かれた世界~史跡 高松城跡編~

14.探訪 屏風絵に描かれた世界~城下町編~

15.高松きものパスポート~着物でお散歩、まちあるき~


そぞろ高松ごゆるり参ろう  ! 漫遊帳体験記お待ちしています。




お問い合わせ

まちかど漫遊帳事務局(高松観光課内)

TEL.087-839-2416(平日のみ受付)



まちかど漫遊帳

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2006-10-05

(2)高松藩歴代藩主

    歴代藩主          在位期間           
 初代 松平頼重 よりしげ 寛永19(1642) -延宝元(1673)  
      ∥
 二代 松平頼常 よりつね         -宝永元(1704) 
      ∥
 三代 松平頼豊 よりとよ         -享保20(1735)
      ∥
 四代 松平頼桓 よりたけ         -元文 4(1739)
      ∥
 五代 松平頼恭 よりたか (中興の祖)  -明和 8(1771)
      ∥
 六代 松平頼真 よりざね         -安永 9(1780)
      ∥
 七代 松平頼起 よりおき          -寛政 4(1792)
      ∥
 八代 松平頼儀 よりのり         -文政 4(1821)
      ∥
 九代 松平頼恕 よりひろ (中興の祖)  -天保13(1842)
      ∥
 十代 松平頼胤 よりたね         -文久 元(1861)
      ∥
十一代 松平頼聰 よりさと         -明治 4(1971)





飛来峰から掬月亭を望む

特別名勝 栗林公園 
(江戸時代には、「栗林荘」とか「御林」とか呼ばれた。)
「御城と御林」お殿様らしいなぁ~。

飛来峰から掬月亭を望む(南湖に浮かぶのが仙磯の岩-造園者の西島八兵衛の作で、庭園の中に仙人が遊びに来る場所を造った。)
※京都の「仙洞御所」(小堀遠州作)にも同様の作庭手法が見られる。

西島八兵衛以後、高松松平家が引き継ぎ約百年の月日をかけ現在の形に仕上げている。

杖を公園に曳け。水清く幽趣(ゆうしゅ)あり雅致(がち)あり、
鯉魚(りぎょ)水中に踊れば、美鳥(びちょう)花間(かかん)に囀(さえず)る。
草木皆(みな)奇態を呈し、丘陵相連なり、
一歩にして風光相転じ園内至る処として、
各々一風景を成さざる所はなく、
真に天下屈指の公園たる名(めい)空しからず、
そぞろに人をして徘徊(はいかい)去る能(あた)はざりしむ。

  -高松が生んだ文豪『菊池寛』の「郷里の風景」の一節から
               (平井さんがお気に入りの詩です)


園古りて松の大樹と池にあり紫雲山より引ける秋の気  与謝野鉄幹

私は西島八兵衛。水のことならお任せくだされ!

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tag : 松平頼重 松平頼常 松平頼恭 松平頼恕 西島八兵衛 菊池寛 栗林公園

2006-10-05

(1)ラジオ中四国8局ネット らじお放送2006.11

まちかど漫遊帳

高松松平藩まちかど漫遊帳そぞろ高松ごゆるりまいろう!

 平成18年10月1日~12月2日 実施

今回の催しの核となっているのが、市民プロデューサーの皆さん!!

玉藻城

玉藻城

わたつみの玉藻の浦を前にしぬ高松の城龍宮のごと  与謝野晶子

との
「まつとの」と「ぽっくり」

西日本放送ラジオでも
『讃岐発 高松松平藩 ご城下物語』

中四国ライブネットのAMラジオ8局ネットで9県に放送決定!!
RNC-RNB-RKC-JRT-RSK-RCC-KRY-BSS
香川-愛媛-高知-徳島-岡山-広島-山口-鳥取・島根

平成18年11月4日(土)18:00~20:00 OA


ゲスト  :村井さん   (讃岐へェ~塾の塾長)
      ANNRIさん (市民プロデューサー)
      永井さん   (市民プロデュースの仕掛人)

特別ゲスト:平井さん   
      現代の黙老-讃岐で最も栗林荘(栗林公園)をこよなく愛する一人



 

中国・四国8局ネットらじお放送決定



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