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2010-09-30

(28)仏生山来迎院法然寺(高松藩主松平家菩提寺)

法然寺(浄土宗)
五重塔 落慶法要 平成二十三年三月二十六日(土)の予定でしたが、東日本大震災の影響で、十一月三日(木)に変更

法然寺
法然寺(涅槃堂門) 
 四国に流された法然上人ゆかりの生福寺を、江戸時代前期の寛文8年(1668年)に徳川光圀の実兄にあたる高松藩初代藩主松平頼重が着工し、約3年の歳月を要し建立したと伝わる。寺院背後の仏生山丘陵上を削り「般若台」と呼ばれる高松松平家の墓所を設けて、当寺院を松平家の菩提寺としました。院号は来迎院。浄土宗に帰依した松平頼重は、6万5千坪(21万5千平方メートル)余りの広大な敷地に極楽浄土の世界を立体的につくり上げたともい云われ、特に涅槃堂の「さぬきの寝釈迦」は有名です。

 また、この寺は外堀を巡らせた造りで、いざと言う時には、玉藻上城の南とりでとしての機能も果たす為、広大な敷地を有します。

法然寺 法然寺

 現在、5年の歳月をかけ創建当時に出土したと伝わる舎利仏を納めるために、木造の五重塔を建築中です。

法然寺
三仏堂(涅槃堂)
法然寺
忠学上人堂

来迎堂
来迎堂内
(阿弥陀如来と二十五来迎菩薩像を安置)

来迎堂

寝釈迦
寝釈迦(嵯峨の立釈迦、讃岐の寝釈迦・・・)

法然寺
五重塔




(本山京都知恩院の法然上人生誕800年の法要が10月に決定。法然寺の五重の塔落慶法要がいよいよ11月3日に行われます。)
    


法然寺
五重塔
法然寺
仁王門と五重塔
法然寺

法然寺
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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

tag : 徳川光圀 松平頼重 法然寺 五重塔

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有形文化財に法然寺の坐像

有形文化財に法然寺の坐像/県文化審が答申

 県文化財保護審議会は7日、香川県高松市仏生山町の法然寺が所蔵する木造阿弥陀如来(あみだにょらい)坐像など3体の仏像を県指定有形文化財に指定し、漆芸作家の石原雅員氏(51)=さぬき市小田=を彫漆の県指定無形文化財保持者に追加認定するよう県教委に答申した。3月定例教育委員会で正式決定する。

 仏像は同寺の三仏堂に安置されている阿弥陀如来坐像、釈迦(しゃか)如来坐像、弥勒菩薩(みろくぼさつ)坐像で、3体まとめて1件の文化財とする。いずれも寄せ木造りで高さは約120~140センチ。台座裏面の銘文から江戸時代前期の1673(寛文13)年に制作したものであることが判明した。

 仏像彫刻の最盛期だった鎌倉時代に比べて江戸時代は優れた作品が少ないとされる中、鎌倉時代の作風を意識した質の高い造形表現が特長。県指定有形文化財の仏像は37件あるが江戸時代のものは初めて。
2011.3.7

讃岐の風土記

京都の東山鹿ヶ谷に知恩院(ちおんいん)という寺があります。現在の伽藍は江戸時代以降に建立されたものですが、ここは法然(ほうねん)上人が後半生を過ごして没したゆかりの地です。法然は浄土宗の開祖で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍しました。浄土真宗の開祖である親鸞は法然の弟子です。法然は一時讃岐に逗留して人々に教えを説いて回っており、讃岐には法然にまつわる伝説や旧跡が数多く残っています。

 法然は、平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)に押領使(おうりょうし)の子として生まれました。諱(いみな)を源空(げんくう)といいます。9歳のときに夜討ちで父を失いますが父の遺言によってあだ討ちを断念し、13歳で比叡山に上り15歳で僧・源光のもとで得度(出家)します。18歳で比叡山でも奥深い山中にある黒谷の叡空(えいくう)に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って「法然坊源空」と改名します。そして承安5年(1175年)、43歳の時に「専修念仏」(せんじゅうねんぶつ)の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下ります。この年が浄土宗の立教開宗の年とされています。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ければ極楽往生できるとする思想です。

 平安時代末期は末法思想が広まり、戦乱や災害に出会った人々は不安にかられ、欲望や終着にとらわれた眼前の世の中を厭い捨てて西方の極楽浄土に生まれるように願い求める厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)を説く浄土信仰に魅かれていました。法然の教えは、このような時勢の求めに応じて、庶民はもとより武士や公家にも急速に浸透していきました。しかし、一方で、破戒と他宗誹謗を理由に南都北嶺の旧仏教勢力から激しく糾弾され攻撃の的とされます。このような中で、建永元年(1206年)3月、最大の擁護者である九条良経が急死し、さらに後鳥羽上皇の女房が上皇の留守中に法然の弟子を慕って出家してしまい上皇の逆鱗に触れるという事件が起きます。翌年2月、法然は弟子達の不行状という理由で土佐に、弟子の親鸞は越後に流罪となります。法然75歳の時です。しかし法然は、「かえって遠くの人々に念仏を説くことができる」と逆に喜んだといいます。

 建永2年(1207年)3月京都を離れた法然は、淀川を下り、摂津の経ヵ島(兵庫)から播磨の高砂・室津を経て塩飽諸島の本島に着きます。本島では、地頭の高階(たかしな)入道西忍(さいにん)の館に迎えられ、しばらく滞在したといいます。その後、宇多津あるいは丸亀塩屋に上陸し、善通寺にもうでてから那珂郡小松荘(現在のまんのう町高篠)へ向かったといいます。本島や小松荘に逗留したのは、これらの地が法然の庇護者である九条家の所領だったことによると云われています。法然が讃岐に逗留したのは、源平屋島合戦から22年後のことです。

 小松荘で、法然は生福寺(しょうふくじ)(現在の西念寺)に居住し、仏像を造ったり、布教に努めたといいます。当時、小松には、法然由緒の寺が生福寺のほか真福寺と清福寺の三か寺あって、総称して三福寺と呼んだといいます。建永2年(1207年)12月、法然は赦免の宣旨を受けます。このため土佐へは行かずに京へ戻ることになりました。しかし、入京が許されたのは、4年後の建暦元年(1211年)で、翌年の1月、現在の知恩院の地で80歳で没しました。

 法然の讃岐在国はわずか10ヵ月でしたが、その足跡は大きく、中讃地方には、伝承も含め法然が説法したとされる寺や仮宿など数多くの足跡が残っており、また讃岐の諸方に伝わる雨乞踊りや念仏踊りは法然の振り付けであるといわれています。
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