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2009-09-22

(25)二代 生駒一正

 弘治元年(1555年)美濃の土田(どた)で生駒親正の子として生まれる。父親正は織田信長のちに豊臣秀吉に仕えた。
 一正も父親正とともに信長次いで秀吉に属し、天正5年(1577年)に紀伊雑賀攻めに参陣した。

 その後も親正のもとにあり、親子で秀吉に臣従して山崎の戦、賤ヶ岳の戦、小牧・長久手の戦、小田原攻めに参陣し、天正19年(1591年)には従五位下讃岐守を授けられた。

 文禄元年(1592年)に始まった文禄の役では親正親子は朝鮮に渡海した。また、慶長の役では一正が蜂須賀家政・脇坂安治らとともに7番隊として2千7百の兵とともに海を渡り、蔚山城攻防戦に参加した。

 慶長5年(1600年)の会津上杉討伐には病気と称し在国した親正に変わり、1千7百あまりの兵を率いて参陣、この時息子正俊を伴ったと伝わっている。

 生駒一正はどもりであったと伝わる。

 関ヶ原の戦いで、西軍石田光成の家老で勇名高い島左近らが一文字に突っ込み、金森長近・田中吉政両軍が退きかけた。一正は、どもりながらも采配を振るい、大いに働いて猛将島左近を退却させたと『廃乱記』にある。後に、その戦功は高く評価された。

 一正は、軍功に代えても・・・・・と父である生駒親正の助命を嘆願した。徳川家康は承知し、讃岐一国を安堵させた。親正は、敗れて高野山に登り頭を丸めた。法号は弘憲。許されても山を下りず、ここで没した。
 
 父の親正は、秀吉の三中老の一人を務めた智将であった。子の一正の為、大事をとって下山しなかったと伝わる。                
                                           (讃岐歴史散歩より)
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tag : 生駒一正 島左近 石田光成 徳川家康 生駒親正 三中老

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お家騒動

江戸時代初期のお家騒動である生駒騒動。暗愚の藩主高俊が原因で譜代の重臣と新参の重臣が争う派閥抗争となり、その結果生駒家は改易となってしまう。

藤堂高虎、生駒家の後見となる

秀吉の時代に中村一氏・堀尾吉晴とともに三中老の一人であった生駒親正は、関ヶ原役の際に行きがかり上、西軍に与したものの、その子一正は東軍につき、讃岐一国の本領を安堵された。
本領安堵をどう評価するかというと、一族を挙げて東軍についた大名家が(藤堂家や浅野家は例外として)僻地へ転封されたとはいえ大幅な加増を受けたことを思えば、結果的に二股をかけた家が本領を安堵されたことは妥当なところであろう。
生駒家は親正が関ヶ原役直後に隠居し、一正、正俊と続いたが一正、正俊ともあまり長生きはせず、一正は慶長15年(1610年)に56歳で没し、正俊も元和7年(1621年)に36歳で死去した。

この当時は徳川幕府の草創期であり、幕府としては外様大名の取り潰しにやっきとなっていた。少しでも落ち度があれば、というより取り潰したければ少々無理をしても落ち度を仕立て上げても取り潰していた。
そのために外様大名は取り潰されぬよう幕府の機嫌を伺い、様々な対策を打った。一正はその対策として正俊の正室に伊勢津の大名藤堂高虎の女を娶った。

藤堂高虎は生駒家同様外様大名であったが、高虎に対する幕府の信任はたいへんなものであった。家康は高虎を厚く信任して、要衝であった伊勢津を与え幕府軍の先鋒とした。
二代将軍秀忠もまたしかりであった。秀忠は高虎を始終江戸城中に招き様々な諮問をし、夜話を聞いた。烏の飛ばぬ日はあっても江戸城に高虎が上がらぬ日はないと言われるほどであった。
それほどの人物だから高虎の女を正室に迎えるということは、幕府や将軍家とも高虎を通じてつながりができたといことで、生駒家の将来を磐石なら占める手段の一つであった。

やがて正俊の世となり、正俊が在封11年で死去した。正俊と正室藤堂氏との間には嫡子の小法師がいた。このとき11歳、元服前であった。
小大名や譜代大名ならともかく、17万石の当主としてはあまりに幼かった。相続は許されたが、場合によっては減知転封となるかも知れず、封地は安堵されても幕府からは目付が派遣されること必定であった。
幕府の目付というのは藩政の監察であるから、落ち度があったり争いがあれば幕府にすぐに知れ、結局は取り潰されてしまう危険がある。そうはならなくても家中は気を使う、鬱陶しいものであった。

生駒家の場合は小法師の母の父、つまり外祖父である高虎の奔走もあったのだろう、高虎が後見することで目付の派遣もなく本領も安堵され、生駒家中は胸をなでおろした。
高虎は生駒家に対して
(1)先代と変わらぬ政治をせよ。特に町人・百姓が困窮しないように注意すること。
(2)小法師幼少につき家中一同注意して争い事のないように気をつけよ。
(3)公事ごとはひいきをせず、家中にて処置できかねる場合は高虎に報告して指示を受けよ。
という定書きを下した。ここまでは別にどうということはない。

騒動主役の登場

暫くして生駒家の江戸詰めの家臣であった前野助左衛門、石崎若狭の両人が高虎のもとに来た。
この両人は、もともと生駒家譜代の家臣ではなかった。両人とも殺生関白と言われ、秀吉に自害を強要された豊臣秀次の重臣前野但馬守長秦の一族であり、秀次事件で浪人をしたが、前野家と生駒家が親しくしていたために、生駒親正が2人を家臣とし、その後一正、正俊にも仕えた。

両人ともに才気があり、勤勉でもあったので正俊も重用していた。高虎もかつては秀吉の弟で大和大納言と言われた豊臣秀長の家老であったので、秀次付きの両名を知っており、高虎が生駒家の後見となると、高虎をよく知る両人は生駒家中でも格が上がるし、高虎としても生駒家中の様子を知るために両人に対して格別の情を示す必要があり、当時の両人は家中でもかなりの羽振りのよさであったろう。
その前野・石崎が言うには、国元の主席家老生駒将監は藩主の一門でもあり、次第に権勢を増してきて最近では専横のこと著しいというのである。

高虎は家中の争いとなることを恐れ、両人を諭して帰したが、これは前野・石崎が出世のために将監の失脚を狙ったという説と将監に本当に専横の振舞いがあったという説がある。
このときはこれで済んだが、高虎が讃岐の様子を見ていると前野・石崎のいう将監専横の事実が本当のことのように思われることが起きた。

讃岐はもともと水利の悪いところで、今でも溜池などが多いが、戦国の世が終わって間もない当時は、少し日照りが続けばたちまち干害に襲われるところだった。
事実大干ばつに見舞われたから、干害対策が急務となった。高虎は讃岐に西島八兵衛という者を派遣していて、その西島は干害対策や農政などのプロであった。
さっそく溜池の整備や用水の開鑿などに奔走した。ところが生駒家中の重臣たちがまったくついてこない。将監など主席家老でありながら人ごとのようで、干ばつのときも対症療法に終始するばかりだった。

それでも西島の奔走と努力によって新田が開かれ、干害に対する備えもでき、おかげで藩財政は安定を見た。すると生駒家中は途端に華美になり贅沢にはしった。
呆れ返った西島の報告を聞き、高虎は苦々しく思ったに違いない。さらにここで将監はヘマを一つやった。
高虎のもとに使いを出して、大和郡山の大名水野勝成の女を、将監の子帯刀の正室に娶りたいと言ってきたのだ。大身の家臣の縁組は幕府の許可がいるために、その前に後見である高虎の許しを得に来たのだ。
これを聞いた高虎は激怒した。奢りがましいというのだ。絶対に許さぬと言い、この縁談は立ち消えになったが、高虎はこの一連のことで、先に前野・石崎が言ってきた将監専横の件は、まんざら根拠がないことでもないと思ったのであった。

前野助左衛門と石崎若狭の専横

この当時小法師は既に元服を終えていた。小法師の元服は寛永2年(1625年)のことで、高虎が烏帽子親となり自身の一字を与えて高俊と名乗らせ、翌年には従五位下壱岐守となった。
高虎はこの孫のために、幕府主席老中土井利勝の女を正室にすべく、その仲を取り持った。高俊はまだ若く経験も乏しいために、元服後も高虎が後見していた。
その高虎は将監の専横を憂い、将監の権力を殺ぐことを考えた。そのために将監に対抗できる人物として、高俊の叔父にあたる生駒左門を家老にし、目付役として前野・石崎の両人も江戸詰め家臣から家老に昇格させた。

このことで将監の力が弱くなったのは確かであるが、前野・石崎の権力は格段に強くなった。やがて寛永7年(1630年)高虎が死去し、藤堂家の家督は高次が継ぐ。高次は生駒家の後見役も引き継いだ。
高次は父高虎とは比ぶべきもない凡人であり、とても他家の後見役など勤まるような人物ではなかったようだ。
一方前野・石崎にしてみれば、藤堂家がバックにあることで家中に権勢を保っていられるのであるから、高次に対しても取り入る必要があった。

前野・石崎は高次に対して「家中の気風を当世風に直すために、しかるべき人物の推薦を賜りたい」と願い、高次から野々村九郎衛門という人物の推薦を受ける。
家中に対しては後見役の意向として、強引に召抱えさせた。さらに、前野・石崎に批判的で、藩の経済面を担っていた重臣三野四郎左衛門の弟庄左衛門が病死すると、その領地を半減させて嗣子権十郎に相続させ、その後も三野一族にことごとく辛くあたり、ついに三野一族を失脚させてしまう。

一方で前野・石崎にへつらう者を取り立てるなどやりたい放題の事を始めた。寛永12年(1635年)、幕府は江戸城修築の手伝いを諸大名に命じ、生駒家もその一部を割り当てられる。
普請奉行となったのは前野と石崎であったが、藩は財政難で費用が出ない。そのために江戸の材木商木屋六右衛門から金を借り、無事普請を勤めた。
ここまではまだよかったが、ここで前野・石崎は図に乗ってお手盛りで千石づつ加増をしたのだ。
ここでも高次公の内意とし、石崎に加増をつかわす指図書を前野が書き、前野への指図書は石崎が書くという手口で、藩主高俊の承諾ももらい、半ば勝手な加増をした。それも加増分については年貢率を五分増しにしてしまった。通常の年貢率は四割だが、四割五分としたのだ。

ところが木屋に対しては借金返済のあてがない。そこで高松城の南にある石清尾山(いわせおやま)の松林の松を伐採させて木屋への返済に充てることにした。
木屋は高松に招待されて松林を見て多いに気に入り、その後前野の息子治大夫の勧めで讃岐国内を見物した。
治大夫はそのころ家老並となっていて、木屋の国内見物に際して、大切な客人である旨、国内各所に触れを回すほど気を使った。

しかし石清尾山は親正入府のときから高松城を守る南の要害とされ、松の伐採はおろか入山すら厳しく禁止された山であった。
それを伐採させたのだから大騒ぎになり、しかも妙な噂が立った。松の伐採は木屋への借金返済のためではなく、前年に前野が後妻を娶った際に木屋がその世話をし、それに対する礼であるという噂で、事実ではないのだが日頃から専横の振舞い多い前野だから家中ではほとんどのものが信じたという。

生駒おどり

この間高俊はどうだったかというと、驚くべきことにこうした状況をまったく知らなかったのだ。高俊は先代正俊と藤堂氏の間の一粒種で大事に育てられて我儘であり、かつ暗愚であったようだ。
かねて婚約していた老中首座土井利勝の女と23歳で結婚したが、高俊には男色趣味があった。男色は戦国時代には戦場に女を連れては行けないから、ごく普通の風習であり、江戸初期にもまだ風習として残っていた。

有名なところでは三代将軍家光がそうであった。あるとき家光が気鬱になり、その慰みのために小姓らを着飾らせて舞を踊らせた。これが家光の気に入り、しばしばやらせては見物をした。
上様のお気に入りということで、老中らまで家中から美少年を選んで家光の前に連れて行き躍らせる。諸大名家でも風流おどりと名前がついて真似をする。

高俊には男色趣味があったのでさっそくこれを真似して、毎晩のように風流おどりをやった。さらに参勤交代の時にも気に入りの美少年を召し連れて、美衣で飾らせて馬に乗せたので、生駒おどりと世間の評判になる。
これらが夫人の父土井利勝の知るところとなり、土井利勝は生駒家の重臣を呼びつけて叱りつけた。
ところがこれが高俊の耳に入ると高俊は、「後見である藤堂殿の言ならば聞かねばならぬが、利勝殿は岳父に過ぎぬ。聞く必要はない」というのだから暗君といっていいだろう。
こんな状態だから家中で何が起きているかなど一切無関心だし、重臣たちも藩主を頼みにしていないから誰も味方に引き入れない。

二転三転

このような状態のところに先の石清尾山の騒ぎが起きたのだから、藩内の対立はついに沸点に達した。生駒将監は既に亡く、その嗣を息子の帯刀が継いでいて反前野・石崎の藩士は帯刀を説いた。
帯刀もついには決起することに決心して、江戸に出て前野・石崎らの行状を藤堂家・土井家、それに縁戚でもあった脇坂家に書状を持って訴えた。

後見役であった藤堂高次は書状を見て驚き、土井家・脇坂家の家老らを集め、その席に前野・石崎始め江戸詰めの生駒家の重臣たちを呼んだ。
このときは結局帯刀方、前野・石崎方双方に対して訓戒をして引き取らせたが、生駒家の家風は武士の意地を張る傾向が恐ろしく強く、とてもこれでは収まらなかった。
双方とも白黒はっきりさせて相手方を処断することを望み、対立は日ごとに激しくなる。ついにはお互い挨拶すらしないようにまでなった。前野・石崎の専横も相変わらずで改まらない。

ここで再び帯刀方は高次に訴えた。再び藤堂家の邸に土井家・脇坂家の家老らが集まり、結局先代からの後見である高次に処置が一任された。
高次は万事生駒家のためとして、双方の主だった者を切腹させることにした。土井・脇坂両家も賛成した。なんとも凄まじい解決策ではあるが、事ここに至っては他に解決策はなかった。
前野・石崎ともこの裁きに不満ではあったが、家のためとあれば仕方がない、承服した。

ところが、これに帯刀方の若い藩士が反発をした。彼らにすれば、忠義の者が逆意の者と同罪というのは納得できないという。高度の政治的判断など受け入れる頭はないのだ。
さっそく代表を選び、選ばれた多賀源助という者が江戸に出て江戸屋敷にいた藩主高俊の前に出た。高俊は何で多賀が江戸に出て来たかわからない。
問いただすと、今までの顛末を語る多賀の言に、前野・石崎のその場を取り繕った話しか聞かされていない高俊は驚いた。いかに暗君であったかがわかる。

暗君であるから考え方は単純で、忠義の者の切腹などとんでもないと思い、高次のもとに乗り込んだ。後見とはいえ、一言の相談もなく家臣の切腹を決めるとは何事というわけだ。
高次は高俊の説得にかかるが、高俊はついに首を縦に振らず、高次の「勝手にされよ」と席を蹴った。これですべてがぶち壊しになった。
もっともこれは高俊の言い分ももっともで、いかに暗愚とはいえ藩主は藩主、後見とはいえ他家の家臣に勝手に切腹を命じるとはあまりの行いである。
この辺が高次という人の限界であり、後見役としても適任とは言い難いところだ。

騒動の決着

高松ではこれを聞いて忠義が不忠に勝ったと喜んだが、前野・石崎も黙ってはいない。幕府に訴状を出し、高松城下では前野・石崎方は一斉に城下から立ち退いた。
それも鉄砲に火縄をかけ、弓に矢を添え、槍・薙刀の鞘をはらっての立ち退きであった。訴状によって幕府の裁きとなった。なお、前野助左衛門はこのころ重病になり、まもなく死去した。

1回目の公判は双方の水掛論に終わったが、2回目で帯刀がかつての千石加増がお手盛りであったことを、指図書の筆跡鑑定によって立証し、これによって前野(助左衛門死去のために息子の治大夫が出頭)・石崎の心証は格段に悪くなった。
3回目の裁きの席で高松城下立ち退きの件が披露されると、幕府役人の態度が俄かに厳しくなる。徒党を結んでの不穏な行動が幕府の禁制に触れたのだ。

これによって結審し、前野・石崎方のほとんどのものは切腹または死罪、帯刀方も他家預けとなった。藩主高俊はその身持ちよろしからずとして改易、出羽矢島に堪忍分として1万石が与えられた。
これによって生駒家は実質取り潰された。なお、高俊死去後生駒家は交代寄合となって幕末まで続いた。

1.生駒一正と堀秀政の妹、永福院

生駒一正と堀秀政の妹、永福院

生駒親正(ちかまさ)が1587年、秀吉から讃岐高松藩17万6千石を与えられ、高松城を居城として築く。
仙石氏、尾藤氏と改易が続いた後だ。緊張の中にも堂々と讃岐入りする。その治世、僅か54年だが、生駒氏四代が近世讃岐の概要を作り上げた。
海に面した玉藻と称えられた美しさと、ひしめく水軍の勇姿とを合わせ、水面に輝く高松城だ。親正は城を愛し、讃岐高松を愛し、文武両道の武将として名君と慕われる。

生駒家と言う名字から、思い浮かべるのが信長の愛した生駒の方だ。
生駒家は平安時代初期、藤原北家全盛を築いた藤原冬嗣(ふゆつぐ)の二男、良房(よしふさ)の子孫が大和国生駒に移り住み名とした。応仁の乱が続く戦禍に見舞われた大和国に見切りを付け、生駒家広が尾張国小折(江南市小折)の地に移住する。
そして、武家であり、木曽川水運を担う川並衆として灰・油の商いや馬借(運搬業)で巨大な冨を築き織田家に仕える。嫡男、豊政から家宗、その子が家長と生駒の方と続く。

木曾川並衆を率いる蜂須賀小六(正勝)と姻戚だ。木曽川の上流美濃国可児を領する土田家とも縁が深い。生駒の方は土田弥平次に嫁ぐ。だが、土田家は斎藤家の内紛で道三方に従い、1556年、夫弥平次は戦死。傷心の生駒の方は、実家に戻る。

信長の母、土田御前は土田家出身で織田信秀の妻となった。一族自慢の美貌の持ち主だ。
生駒の方の夫、弥平次の叔母になる。
土田家で信長は良く話題になる身近な主君だ。生駒の方も何度も信長のすごさを聞いた。
生駒家に、土田御前から信長に仕えるように知らせが来る。父、家宗と土田御前らが周到に準備し、生駒の方と信長の出会いの場が創られた。
信長23歳は濃姫と結婚して8年、父を、続いて道三を亡くし難しい家中を治めていた。
信長は活気溢れた生駒屋敷を訪れ生駒の方に引き合わせられた。喧騒に中にあでやかに咲くような生駒の方に目が留まる。生駒の方はこの時を逃さず、全身全霊を賭けてぶつかり、信長の心をつかむ。
生駒の方は信長より6歳年上の29歳で、出産経験もあるかなり年増な人生経験豊富な女人だ。周囲の期待に応えて、憧れの主君の心を射止め、会心の笑みを浮かべた。
直ぐに子が授かり、翌年には信長二男、信雄が誕生した。
父、家宗は出戻りの娘が主君、信長に愛されたことに感激し、信長のために一身を投げ打って資金提供し仕える。兄、家長は後に信雄に付きの側近となる。

生駒の方は1566年に亡くなり、1582年には信長も亡くなり、秀吉の時代が来る。
信雄は一時伊勢を領し百万石を超える大名となり家長も共に栄光を味わったが改易された。改易時、信雄から叔父として頼られる事もなく、秀吉から直臣への誘いもなかった。
まもなく、信雄は許され一から出直した形で嫡男、秀雄が越前亀山5万石、信雄が大和国内に1万8千石を与えられ、秀吉に仕える。
家長は浪人の後、信雄を頼ることも出来ず、やむなく秀吉に従うが優遇はされない。

生駒の方の口添えで、秀吉は信長仕官への道が開けたと後世伝えられるが、秀吉の生駒家への扱いを見ると感謝しているとは思えない。作られたエピソ-ドだろう。

秀吉死後、秀吉に評価されなかった家長は迷うことなく家康に近づき、東軍として戦う。
但し、自前の軍勢を多数持つほどの力はなく、福島正則軍に従っての参戦だ。
それでも、家康は目に留め、尾張藩に仕えるよう求めた。
家長は故郷で力を発揮できる場を与えられ、大喜びで懸命に尾張藩に尽くす。子の利豊が引き継ぎ、尾張藩家老家四千石として続く事になる。
娘、ヒメの夫は徳島藩主、蜂須賀家政だ。妹に招かれた兄、善長も徳島藩家老となる。

生駒家は、生駒の方の美貌に家運を賭けて信長の心をつかみ成功したが、信長からは経済力は認められても、武将としてはそれほど評価されなかった。
生駒の方の功を始めとするが信長・秀吉では花開かず、徳川家、蜂須賀家により面目を保つ居場所を見つけた。尾張藩家老として父祖の地を守り、徳島藩で重きをなした。

生駒家嫡流は高松藩主ではなく、別系統の土田生駒家の家系が高松藩主なのだ。
生駒親正の父は親重(ちかしげ)でもともと土田政久と名乗り、土田御前の兄になる。
生駒家広の娘を母とする。

土田家は近江の六角氏庶流、佐々木山内氏(宇田源氏)から始まったとされる。
泰久・政久(生駒親重)・土田御前の父が、秀久だ。
土田秀久の父、秀定が土岐氏(明智氏)に招かれ美濃国可児郡土田に移り、土田城を築き名とした。秀定は明智城(可児郡長山)主、土岐(明智)氏の娘婿となり仕える。
秀久と娘が生まれ、娘は織田信定(信長の祖父)に嫁いだとも言われ、この頃から織田家とは繋がりがあった。

生駒家広の娘は秀久と離縁し、土田政を連れて実家に戻る。土田政久は母の弟、豊政の養子となり、生駒親重と名乗り生駒家で育つ。
土田家は生駒家より家格が上であり、自然と嫡男待遇になる。
ところが、1556年、斎藤家の内紛で、道三側に付いた土田家は道三の嫡男、義龍に滅ぼされ本家は断絶する。生駒の方の先夫が戦死した時だ。

土田御前は義龍と織田家は連携すべきだと考え信長の弟、信行を擁して織田家の家督を奪おうと策するが、敗れた。土田御前は信長との関係修復を狙い、生駒の方を信長に仕えさせ、実家、土田家を再興するしかないと考えを変えたのだ。
信行は失うが、親重は美濃国可児郡の土田城に入り城を預かる。信長は親重を側近としていく。生駒親重が生駒家の名のままで土田家を引き継ぎ、土田御前の思いが実現する。
こうして、土田家が生駒家となる。高松藩生駒家は信長の母、土田御前の実家なのだ。
信長と母、土田御前は一時の諍いはあったとしても、親子関係は続いた。血縁はあるが、織田家譜代の重臣でもない土田家を大切にするのは、母を思う故だろう。

親重の嫡男、親正も猛将だと気に入られ信長に仕えていた。母は一族、曽根氏の女人だ。
親正と秀吉の運命の出会いは1570年、浅井長政の裏切りに端を発した金ケ崎の戦いだ。信長は窮地に追い込まれ、殿(しんがり)を申し出た秀吉に、信長が付けた五人の猛将の一人が親正だ。
親正は絶体絶命の危機の中で秀吉と共に奮闘し、逃げ切った。その働きに感心し秀吉が信長に願い、親正は秀吉の与力となる。
生死を共にし生き残った縁で、親正と秀吉は強く結びついた。
信長の死に際しても明智家との強い縁があったが、秀吉に忠誠を尽くす。弔い合戦、山崎の戦いでも突撃し戦功を上げ、秀吉はますます信頼し次々出世させていく。

近江国高島郡2万3千5百石を与えられ、その後も戦果を挙げ加増され讃岐高松を得た。
後に、堀尾吉晴・中村一氏とともに「三中老」の一人となるほどに信任された。

親正の嫡男が、一正だ。母は生駒一族であり重臣の高木氏になる。
信長が「親正を秀吉に取られた。代わりに、一正を預かる」と言い可愛がった。
そして、信長に寵愛され、とんとん拍子で出世している堀秀政の妹、永福院と一正の結婚を決めた。
ここから、一正に父とは別の織田家重臣の道が開けていく。

堀家は藤原北家、利仁流を受け継ぐ斉藤氏を祖とし、美濃斎藤家に仕えた。信長は妻、濃姫の実家に繋がる美濃衆を厚遇し、その縁もあり堀家を取り立てた。
堀秀政の容姿があまりにも信長の好みでありが気に入ったのだが、知謀の将だった。
この頃の一正は怖いものなしだ。信長の縁戚であり斎藤家・明智家を受け継ぐ武将だと将来が輝いていた。堀秀政と共に重臣の道を確実に歩んでいた。
だが、信長は1582年、殺される。やむなく、父に従い秀吉に仕える。

一方、父、親正は常に秀吉の側近くにおり、秀吉政権が出来ると堂々と担っていく。
信長から秀吉の時代に移ると、ますます生駒家は伸び、順風満帆だった。
一正は父に隠れるように秀吉に従い、生駒家を守る良くできた2代目となる。かって信長に従い満ち溢れていた覇気がなくなり寂しい時もあるが。
父、親正と堀秀政とが秀吉と深く結び付き、生駒家があると遠慮がち従う。

親正や堀秀政は信長の死を冷静に受け止め乗り越えた。
だが、一正は信長に心酔していた。信長の死はあまりに衝撃的で立ち直れなかった。
信長への忠誠心を競った堀秀政とは親友であり、間を取り持つ妻、永福院との仲は良い。
永福院に励まされ、どうにか威厳を保ち家中も一正に従うのだと感謝する。
堀秀政は一正より優秀で、先を見る目があった。
信長の側近くに森蘭丸が仕えるようになると、信長の側近から少しずつ離れ織田家重臣の道を歩み始めた。
秀吉の軍監を命じられると、秀吉の側近く仕え、信長との取り次ぎを担う。秀吉のすべてを学び取ると熱い目で秀吉の采配ぶり見続けて、感銘を受け、信奉していく。

信長が殺された時、堀秀政は中国攻めの最中の秀吉の側にいた。すべてに運がよかった。
そのまま、秀吉に従い弔い合戦に参陣し戦い、勇猛な武将としての存在感を示した。
そして、秀吉から高く評価され順調に出世していく。

おかげで、義兄弟、一正の地位も高まり、高松藩を与えられる一因となる。
だが1590年、秀政が亡くなる。一正には2歳年上のかけがえのない義兄だった。
37歳というあまりに早い死に、一正と妻、永福院の衝撃は大きかった。
秀政の嫡男、秀治14歳が後を継ぐ。

秀吉は秀政の残した業績を高く評価し、秀治に越後春日山45万石を与えた。与力大名の村上氏9万石・溝口氏6万石を含めてだが。
しかし、堀家の秀吉政権での立場は弱まっていく。
1598年、秀吉は亡くなる。

一正は秀吉に格別の恩はなく、実力者家康に近づく。
父、親正と堀家は秀吉恩顧との強いレッテルが貼られ家康は動きを注目した。
1600年、上杉攻めから始まる天下分け目の関ヶ原の戦いが起きる。親正はあまりに秀吉に恩があり、家康の優性を感じたが動けなかった。
三成からの秀頼の名による参陣の申し出を断れず娘婿、大塚氏らを派遣し、西軍として丹後国田辺城攻めに加わらせた。

一正は迷うことなく家康方東軍に従い、上杉攻めに向かう。
途中、下野の小山で三成挙兵の報が入る。家康の三成攻めの可否を問う評定にも力強く賛同し、反転西上し三成との決戦に向かう。
清洲城に入り、関ヶ原の前哨戦となった岐阜城攻撃にも参加し本戦に臨む。
関ヶ原では、家康本陣の前面に陣を敷き、石田光成の将、島左近と奮戦した。
戦後、「一正に功あり」と家康は高松藩生駒家を加増の上安堵し18万5千石となる。


生駒家家臣分限記

天正十五年、讃岐に入府した生駒氏は、仙石氏、尾藤氏の後を次ぎ、国主を務めた。その治世は、僅か五十四年であったが、その間に、生駒氏四代は、近世讃岐のほぼ全てを作り上げた。後の松平氏、京極氏は、生駒氏の遺産を踏襲したに過ぎない。その事跡は、高松、丸亀兩城の築城、城下町の経営、満濃池を始めとする数多くの溜め池の改修、築造、戦火で荒れた寺社の復興等、多岐に渡っており、枚挙に暇がない。
斯様な生駒氏の領国経営を支えたのは、初代、親正公、二代、一正公が手ずから育てた生駒家の家臣団である。彼らは大別して、美濃衆(一族衆。これは生駒氏一族、及び母方、妻方の縁者よりなる。生駒氏、土田氏、入谷氏、曽根氏、高木氏、堀氏等)、近江衆(上坂氏、石崎氏、宮部氏、田中氏等)、中国衆(襲封初期には多数見受けられるが、後にかなりの者が除籍となっている)、讃岐衆(香川氏、香西氏、河田氏、佐藤氏、加藤氏、由佐氏、林田氏、高井氏、尾池氏、三野氏等)、伊予衆(周敷氏、黒川氏、河野氏、野田氏、石川氏等)、阿波衆(飯尾氏、市原氏、七条氏、篠原氏、四宮氏、安宅氏、明石氏等)より構成されるが、その全てが、足利時代の動乱期を逞しく生き抜いた生え抜きの侍たちである。今、ここに彼ら全ての氏名を列挙し、その功績を称えるものである。(他にも、森氏、浅田氏等の大身の家臣がいるが、その出自を著者は寡聞にして知らない。一説によると、阿波より移り住んだともいうが。)
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