--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2009-09-22

(24)初代 生駒親正

 生駒藩の初代は生駒親正である。雅楽頭(うたのかみ)と呼ばれた。
 
 大永6年(1526年)生駒親重の子として美濃の土田(どた)で生まれる。幼名甚介、のちに正成・近世・近規・近親・親正と名を改めた。永禄9年(1566年)頃より父親重と同じく信長に仕えたという。

 元亀元年(1570年)、信長は越前の朝倉義景を攻めた際に、同盟していた浅井長政が突然離反し、越前金ヶ崎城で進退に窮した。この時に殿軍を引き受けた秀吉に、信長は勇士5人を付与した。その中に生駒親正の名も見える。

 これ以降、親正は秀吉とともに行動し、天正3年(1575年)の長篠の戦、天正4年(1576年)の本願寺攻撃、天正5年(1577年)の紀伊雑賀攻めに加わり軍功を挙げ、同年よりの中国征伐にも従った。

 本能寺の変以後も、山崎合戦、賤ヶ岳の戦、小牧・長久手の戦、小田原攻めにも参陣した。この間、天正13年(1585年)に近江高島郡に二万三千五百石を与えられ、翌天正十四年、伊勢の神戸四万石から播州赤穂六万石に移封された。翌十五年に讃岐一国を賜り、いったん引田城に入った。ここでは便利が悪いので、宇多津の聖通寺城に引っ越した。先任の仙石権兵衛が居城とした山城である。ここも山の上であるうえ、讃岐の中央より西に偏していた。そこで天正十六年、香川郡箆原郷(野原庄)に新城を築き、ここに移った。

 これが、高松城。しかし、西讃岐のことが気にかかるので、亀山に支城を築いた。丸亀城である。高松・丸亀両市にとって開創の先覚者である。

 豊臣政権のおり、五大老五奉行の調整役として三中老の筆頭を務めた。

 関ヶ原の役に、生駒親正は西軍の石田光成に味方した。子の左近一正は数十騎(1830名)を従えて東軍の徳川家康に従った。父子が、東西に分かれたのは、真田昌幸・信幸とこの生駒家の両家である。父はともに智謀の人であった。

親正は、慶長8年(1603年)に高松城にて亡くなりました。69歳でした。息子の一正は父の菩提を弔うため、高松城下浜ノ丁に弘憲寺を建立、境内に葬りました。今も弘憲寺には生駒親正夫妻墓所が残ります。

                                         (讃岐歴史散歩より)

三中老
生駒親正(讃岐高松18万石)
堀尾吉晴(遠江浜松12万石)
中村一氏(駿河府中14万石)

五大老
徳川家康(関東256万石)
前田利家(北陸地方・加賀83万石)
毛利輝元(中国地方・吉備西半・安芸120万石)
宇喜多秀家(中国地方・吉備東半57万石)
上杉景勝(会津120万石)

五奉行
主に司法担当 – 浅野長政(筆頭・甲斐甲府22万石)
主に行政担当 – 石田三成(近江佐和山19万石)
主に土木担当 – 増田長盛(大和郡山22万石)
主に財政担当 – 長束正家(近江水口5万石)
主に宗教担当 – 前田玄以(丹波亀岡5万石)
スポンサーサイト

テーマ : 香川・愛媛・高知・徳島
ジャンル : 地域情報

tag : 生駒親正 三中老 五大老 五奉行 高松城 丸亀城 弘憲寺 上杉景勝

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

石垣造りの名人・羽坂重三郎

■石垣造りの名人・羽坂重三郎!

生駒親正は、讃岐国17万千8百石、豊臣三中老の一人で、豊臣家中では重用されていた人物であった。

その親正が築城したのが、現・香川県丸亀市一番町にある丸亀城である。この丸亀城は、慶長2年(1597)から5年かけて、同国・高松城の支城として築城され、(一説に慶長7年(1602)着工)標高66メートルの小高い山の上に築かれた平山城であった。
特に石垣の造型美に名高い城で、三の丸から本丸に螺旋状に続いていく石垣の曲線が美しく、「扇の勾配」と呼ばれて、今も訪れる人たちを感嘆させている。

その優美な石垣を造ったのが石工・羽坂重三郎という男であった。
重三郎は、石垣造りは天下一品と賞された男で、その名声を買った生駒親正が、丸亀城の石垣作成を重三郎に依頼したのであった。

依頼を受けた重三郎は、これを快く引き受け、さっそく造営にとりかかった。重三郎が仕事をする時は上半身裸になる。仲間からも「はだか重三(じゅうざ)」と呼ばれて親しまれており、作業も早かった。


■余計な一言を言ってしまった重三郎

やがて、重三郎の手による見事な石垣が完成した。
完成した石垣を見た親正は大層上機嫌で、
「あっぱれ、あっぱれ。さすがに重三郎の名声は噂だけのものではないな。このような見事な石垣ならば、鳥でのうてはまず登ることもかなうまい。」
と言ったところ、重三郎は得意満面であったから、こんなことを言ってしまった。
「まことにありがたきお言葉。されど、登ることも不可能ではありませぬ。常人には無理でしょうが、わたくしならばこの鉄棒一本あらば登ってみせましょうぞ。」

重三郎は、さっと大工道具の棒を一本取り出すと、それを親正に見せた。親正は、この得意げな態度に少しカチンときたのか、ピクリと眉を動かしたが、
「ほう、さらば登ってみせい。」
と言った。

重三郎はさっそく石垣の切石の隙間に棒を挟むと、器用にするすると石垣を登ってしまった。そして、上まで行くと、今度も同じようにしてするする降りてきた。

この様子を唖然として見ていた親正は、降りてきて「この通りでございます」と言う重三郎に、
「ほ、ほほう。これはたいしたものよ。さすがは重三郎じゃ。」
とこの場では、重三郎を褒め称えた。

■警戒されて殺される

しかし、重三郎が帰ってから、
(石垣は見事なものじゃが、あやつが登れるとあっては…。万一、あやつが敵に内通しおったら、この城とて危機に陥るやもしれぬ…。これは先手を打っておいたほうがよいか…。)
と考えた。

後日、親正は重三郎を呼び出した。
「実は、内々の用なのじゃが、今度は城から井戸までの抜け道を作りたいのだ。おぬしの造作の匠を見込んで、どこの井戸に道をつなげるべきか、井戸の底を調べてもらいたい。」
重三郎は頼りにされているのが嬉しくて、これまた快く引き受け、すぐに作業に取り掛かった。そして、2つ調べて、3つ目の井戸に入って底を調べていたときである。
なんと、上から巨石が降ってきた。
「う、うわあー!!!」

哀れ、重三郎は巨石の下敷きとなって死んでしまった。石を落とすよう命じたのは言うまでもなく、生駒親正であった。

全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

お洗濯!お洗濯! じゃぶ!じゃぶ!じゃぶ!
最近の記事
四国ブログランキング

FC2ブログランキング

↑ご覧頂いた方は、クリックお願いします。 傘張~ないしょく・ないしょく
カテゴリー
電光掲示板
リンク
忍者~くせ者だ!
歴史ブログ

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 トラコミュ 高松松平藩へ
高松松平藩
にほんブログ村 トラコミュ 日本庭園へ
日本庭園
にほんブログ村 トラコミュ 日本の文化へ
日本の文化
天気予報
最近のコメント
カウンター
ブログ内検索
プロフィール

玉藻よし

Author:玉藻よし
城下町 高松を再発見していこう

お殿様がお正月に、あん餅をくれる。ありがたや。
最近のトラックバック
QRコード
QR
琴平電鉄
琴電がゆく
映画DVDファッション雑誌無料ブログパーツ
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

RSSフィード
時計
国盗りカウンター
アニメ画像

★
HeroRisa

ぱたぱたアニメ館
GIFアニメ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。