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2006-10-17

(14)七代藩主 松平頼起(よりおき)欽公

一、災害との戦い
 松平頼重が高松に入封して以来、十一代二百二十七年間に七十六回の自然災害を経験している。単純計算で、三年に一度災害に見舞われその九割が讃岐特有の旱魃でした。

 高松藩の、旱魃対策はため池の新設・修築、さらに新田開発・塩・砂糖などの殖産興業策などの積極策と節約令など支出を制限する消極策のどちらかでした。

 頼起は、父の頼恭や兄の頼真らの災害対策が効を奏していた時期に藩主についていた為、恵まれていました。それと共に、別所旧九兵衛包好のような模範庄屋がおりリーダーシップを発揮し、農民たちの生産意欲を持続させた。

 頼起が高松藩を継いだ翌年平賀源内が亡くなり、三十四才から十二年間藩主の座にあった。(分別盛りの殿様) 就封後初めてお国入りした頼起は、藩士たちに祝いとして百石に付き三石を与えるというふるまいをしている。

 また全国的に「天明の飢饉」といわれる時期に、頼起四十一才のとき宗家の水戸家から十七才の豊姫が輿入れし、その祝儀に農民に米や栗九千六百石を与えている。

 その二年後、三年続けて「五穀実らず」という大干ばつに襲われた時も藩が五千五百石領民に貸し与え、内三千石は三ヶ年の分割返済で、残り二千石は返済棚上げという大英断を実施した。

 この頃、讃岐出身の柴野栗山が老中松平定信のブレーンとして幕府に仕え活躍する。

 頼起は、性格が仁慈で欲が少なく、柔軟なところがあったが、武術は新田宮流の居合いの奥義を極め、趣味は義太夫・浄瑠璃を好み、能・猿楽は江戸や大坂にお抱えの太夫や狂言師がいた程でした。

 松平家十一代の内、六代~八代は讃岐の血流で占められ、農民たちに、極めて寛大であった。頼起は生来穏やかな殿様で、弟の大久保一学(国家老の大久保家に養子)は、横暴な振る舞いが目立った。家老として独裁色を強め、藩内に不穏な噂が流れ、お家騒動の一歩手前のところまで来ていたともいわれた。

 頼起は、四十六才で死去するが、災害多く多難な時期ではあったが、幸いにして藩に蓄積があったので平穏な人生を過ごすことができた。


父や兄はありがたい!  余は民に優しいぞ


七代、松平頼起 生没年:1747-1792
父:讃岐高松藩五代藩主 松平頼恭
幼名:鼎之助、帯刀
1780-1792 讃岐高松藩七代藩主
1787 従四位上権中将
正室:述姫(父:常陸水戸藩六代藩主 徳川治保)
1775-1829 (養子)頼儀

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tag : 天明の飢饉 頼起 大英断 讃岐の血流 別所旧九兵衛包好 柴野栗山

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7代 松平頼起(1747~1792)
父: 5代藩主 松平頼恭(1711~1771)
母: 鈴木ルセ
幼名: 鼎之助
諡号: 欽公
院号: 蘭皐院
正室: 皐安院 述姫(水戸徳川治保女)(1768~1840)
側室: 母追跡中
近江彦根藩主井伊直亮室
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