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2006-10-05

(2)高松藩歴代藩主

    歴代藩主          在位期間           
 初代 松平頼重 よりしげ 寛永19(1642) -延宝元(1673)  
      ∥
 二代 松平頼常 よりつね         -宝永元(1704) 
      ∥
 三代 松平頼豊 よりとよ         -享保20(1735)
      ∥
 四代 松平頼桓 よりたけ         -元文 4(1739)
      ∥
 五代 松平頼恭 よりたか (中興の祖)  -明和 8(1771)
      ∥
 六代 松平頼真 よりざね         -安永 9(1780)
      ∥
 七代 松平頼起 よりおき          -寛政 4(1792)
      ∥
 八代 松平頼儀 よりのり         -文政 4(1821)
      ∥
 九代 松平頼恕 よりひろ (中興の祖)  -天保13(1842)
      ∥
 十代 松平頼胤 よりたね         -文久 元(1861)
      ∥
十一代 松平頼聰 よりさと         -明治 4(1971)





飛来峰から掬月亭を望む

特別名勝 栗林公園 
(江戸時代には、「栗林荘」とか「御林」とか呼ばれた。)
「御城と御林」お殿様らしいなぁ~。

飛来峰から掬月亭を望む(南湖に浮かぶのが仙磯の岩-造園者の西島八兵衛の作で、庭園の中に仙人が遊びに来る場所を造った。)
※京都の「仙洞御所」(小堀遠州作)にも同様の作庭手法が見られる。

西島八兵衛以後、高松松平家が引き継ぎ約百年の月日をかけ現在の形に仕上げている。

杖を公園に曳け。水清く幽趣(ゆうしゅ)あり雅致(がち)あり、
鯉魚(りぎょ)水中に踊れば、美鳥(びちょう)花間(かかん)に囀(さえず)る。
草木皆(みな)奇態を呈し、丘陵相連なり、
一歩にして風光相転じ園内至る処として、
各々一風景を成さざる所はなく、
真に天下屈指の公園たる名(めい)空しからず、
そぞろに人をして徘徊(はいかい)去る能(あた)はざりしむ。

  -高松が生んだ文豪『菊池寛』の「郷里の風景」の一節から
               (平井さんがお気に入りの詩です)


園古りて松の大樹と池にあり紫雲山より引ける秋の気  与謝野鉄幹

私は西島八兵衛。水のことならお任せくだされ!

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tag : 松平頼重 松平頼常 松平頼恭 松平頼恕 西島八兵衛 菊池寛 栗林公園

2006-10-07

(4)高松松平藩のお話

松平藩のお話 - 讃岐のへぇ~塾ブログ 『讃岐の風土記』より 

 1.“讃岐高松二代目藩主は水戸黄門の息子”

 2.“茶道・千家と讃岐との深い縁”

 3.“柳沢吉保と讃岐高松藩との名刀をめぐる確執”

 4.“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主”

 5.“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟”

 6.“日本三大庭園より立派といわれる栗林公園

 7.“東照宮も左甚五郎の墓もある高松”

 8.“和三盆のふるさと讃岐”

 9.“松平定信のブレーンだった讃岐出身の儒学者”

10.“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技
術者で塩田の父”

11.“滝沢馬琴の親友だった高松藩家老”

12.“十七人のうち四人も人間国宝を輩出した讃岐漆器の技”

参照:讃岐の風土記 



http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-category-3.html


おれは高松の一心太助だ! 讃岐の魚は旨いよ!




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tag : 讃岐の風土記 水戸黄門 井伊直弼 徳川慶喜 栗林公園 和三盆 滝沢馬琴

2006-10-12

(7)高松藩祖 松平頼重(よりしげ) 英公(えいこう)

一、生い立ち

 徳川家康の孫すなわち家康第十一男徳川頼房の長男で、同腹の弟に水戸藩主徳川光圀がいる。

 同腹の兄弟は、互いに子息を相手側に養子にやり相続している。

 頼重の母は、水戸家家臣谷重則の息女「久」のちの高瀬局。お久が身ごもったとき頼房は、兄の徳川義直(尾張)徳川頼宣(紀伊)の両者に子がなく自分も二十才の若さであったため、久の子を水にするよう指示したが、家臣の三木氏は頼房準母の英勝院に相談し、自分の別邸で出産させ、竹丸と命名され秘密裏に育てられた。

 のちに頼房が、二十六才のとき、久は再び懐妊、間もなく長丸(光圀)を出生するが、家臣の三木は、竹丸のことを気づかれるのを恐れ、京都の公卿滋野井大納言に預ける。

 京都では、天竜寺塔頭真乗院や慈済院に学問し、福寿院という無住寺で生活した。この天竜寺での生活が、頼重の人格形成に大きい影響を与えたと思われる。

 その後、十一才(1632)の時水戸から迎えが来て、水戸藩邸に入ったが実父の頼房と対面するのは、五年後のことでその時八十郎と名乗った。

 翌1638年八十郎は、頼房の長子として老中に挨拶、御三家の尾張・紀伊家とも対面し、右京太夫と名乗り江戸城に登城、三代将軍家光に拝謁した。翌年、常陸国下館五万石を賜り大名となり、松平頼重と名乗る。

 こうしているうちに讃岐生駒氏が、お家騒動で改易になり1642年頼重は、讃岐国で十二万石を与えられる。

二、高松での政治(主なもの)
 治水と利水
    -1644年に土管・木樋・竹樋を使った日本初の上水道の敷設。
    -城池(東植田町)、仁池(飯山町)、新池(香川町)、宮奥池(白鳥町)など多く のため池を造る。
    -高松東部の松島から潟元を干拓、新田を造る。

 寺社の再興
    -法然寺を建立、金刀比羅宮、白鳥神社と共に朱印地とする。
 


その他
 和歌を好んで作り、後水尾天皇の知遇を得て、歌稿の御校閲を賜り、公卿などとも歌詠応答を楽しんだ。
 国学と神道に通じた猪熊千倉を京より招き白鳥宮の神官とした。
 水戸の朱子学派の儒学者岡部拙斎を招いて講義を聴かせた。

初代、松平頼重 生没年:1622-1695
父:常陸水戸藩初代藩主 徳川頼房
幼名:竹丸、八十郎
1639-1642 常陸下館藩主
1642-1673 讃岐高松藩初代藩主
1656 従四位下権少将
1656 左京大夫
讃岐守
正室:(父:土井利勝)
綱方(義父:常陸水戸藩二代藩主 徳川光圀
1656-1718 徳川綱條(水戸徳川家へ)
頼剛
頼侯
頼芳
糸(有馬頼利室)
長(従一位関白 鷹司兼熙室)

娘(肥後熊本藩三代藩主 細川綱利室、父:常陸水戸藩初代藩主 徳川頼房
1652-1704 (養子)頼常

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tag : 徳川家康 徳川頼房 徳川光圀 滋野井大納言 松平頼重 上水道 朱印地

2006-10-14

(8)高松松平藩 系図

御紋-丸に三つ葉葵


初代、松平頼重 生没年:1622-1695
父:常陸水戸藩初代藩主 徳川頼房
幼名:竹丸、八十郎
1639-1642 常陸下館藩主
1642-1673 讃岐高松藩初代藩主
1656 従四位下権少将
1656 左京大夫
讃岐守
正室:(父:土井利勝)
綱方(義父:常陸水戸藩二代藩主 徳川光圀)
1656-1718 徳川綱條(水戸徳川家へ)
頼剛
頼侯
頼芳
糸(有馬頼利室)
長(従一位関白 鷹司兼熙室)

娘(肥後熊本藩三代藩主 細川綱利室、父:常陸水戸藩初代藩主 徳川頼房)
1652-1704 (養子)頼常

二代、松平頼常 生没年:1652-1704
父:常陸水戸藩二代藩主 徳川光圀
義父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
幼名:鶴丸
1673-1704 讃岐高松藩二代藩主
従四位上権中将
正室:(父:酒井忠清)
1680-1735 (養子)頼豊
松平頼侯
父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
讃岐高松藩厄介
側室:樋口氏
1680-1735 頼豊

三代、松平頼豊 生没年:1680-1735
父:讃岐高松藩厄介 松平頼侯
義父:讃岐高松藩二代藩主 松平頼常
幼名:軽千代
1704-1735 讃岐高松藩三代藩主
1716 従四位上権中将
正室:(父:大納言 正親町実豊)
側室:湯浅氏
1705-1730 徳川宗堯(水戸徳川家へ)
頼治


清玉尼
春姫(讃岐高松藩四代藩主 松平頼桓室)
娘(樋口基康室)
友姫(陸奥会津藩四代藩主 松平容貞室)


1720-1739 (養子)頼桓
松平頼芳
父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
帯刀
妻:
頼熙
松平頼熙
父:松平頼芳
志摩
厄介
側室:佐野氏
1720-1739 頼恒
1721-1780 蜂須賀宗鎮(蜂須賀氏へ)
側室:渡辺氏
1737-1754 蜂須賀至央(蜂須賀氏へ)

四代、松平頼桓 生没年:1720-1739
父:松平頼熙
義父:讃岐高松藩三代藩主 松平頼豊
幼名:亀之助
1735-1739 讃岐高松藩四代藩主
正室:春姫(父:讃岐高松藩三代藩主 松平頼豊)
1711-1771 (養子)頼恭

五代、松平頼恭 生没年:1711-1771
父:陸奥守山藩初代藩主 松平頼貞
義父:讃岐高松藩四代藩主 松平頼桓
幼名:帯刀、大助
1739-1771 讃岐高松藩五代藩主
1760 従四位上権中将
正室:(父:肥後熊本藩四代藩主 細川宣紀)
1743-1780 頼真
側室:荒川氏
1747-1792 頼起
頼昌
頼周
頼裕
娘(従二位大納言 徳大寺公城室)
娘(宗義暢室)
娘(堀田正順室)
娘(上野館林藩主 松平武寛室)
娘(酒井忠以室)
娘(小笠原長堯室)
娘(戸沢正産および堀長教室)

六代、松平頼真 生没年:1743-1780
父:讃岐高松藩五代藩主 松平頼恭
幼名:軽千代
1771-1780 讃岐高松藩六代藩主
正室:薫姫(父:紀伊和歌山藩六代藩主 徳川宗直)
側室:中山氏
1775-1829 頼儀


七代、松平頼起 生没年:1747-1792
父:讃岐高松藩五代藩主 松平頼恭
幼名:鼎之助、帯刀
1780-1792 讃岐高松藩七代藩主
1787 従四位上権中将
正室:述姫(父:常陸水戸藩六代藩主 徳川治保)
1775-1829 (養子)頼儀

八代、松平頼儀 生没年:1775-1829
父:讃岐高松藩六代藩主 松平頼真
義父:讃岐高松藩七代藩主 松平頼起
幼名:雄丸
1792-1821 讃岐高松藩八代藩主
1817 従四位上権中将
正室:藤(父:加賀金沢藩十代藩主 前田重教、義父:加賀金沢藩十一代藩主 前田治脩)
正室:(父:備前岡山藩五代藩主 池田治政)
側室:藤木氏
1809-1868 頼該 (左近)
1810-1877 頼胤
頼顕
忠民
娘(井伊直亮室)
娘(讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕室)
娘(板倉勝明室)

1798-1842 (養子)頼恕
松平頼該
生没年:1809-1868
父:讃岐高松藩八代藩主 松平頼儀
松平左近
妻:
娘(義父:讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕

九代、松平頼恕 生没年:1798-1842
父:常陸水戸藩七代藩主 徳川治紀
義父:讃岐高松藩八代藩主 松平頼儀
幼名:熊太郎
紀経
1821-1842 讃岐高松藩九代藩主
1837 正四位下権中将
正室:(父:讃岐高松藩八代藩主 松平頼儀)
頼熙(義父:讃岐高松藩十代藩主 松平頼胤)
側室:正林院 八重野(浅田氏)
1832-1912 松平勝成(伊予松山藩へ)
1834-1903 頼聡
大久保忠礼
娘(出羽米沢藩十二代藩主 上杉斉憲室)
娘(亀井茲監室)
娘(信濃松代藩九代藩主 真田幸教室)
1810-1877 (養子)頼胤
(養子)娘(父:松平頼該)
側室:野萱
1827-1842 武揚(石見浜田藩へ)

十代、松平頼胤 生没年:1810-1877
父:讃岐高松藩八代藩主 松平頼儀
義父:讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕
幼名:雄丸、都太郎、貞五郎
1842-1861 讃岐高松藩十代藩主
1857 正四位上権中将
正室:霊鏡院 文姫 徳川結子(父:征夷大将軍 徳川家斉)
頼温
竹雄丸
娘(大原重実室)
娘(松平頼策室)
頼熙(父:讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕
頼和(西条松平家へ)
1834-1903 (養子)頼聡

十一代、松平頼聡 生没年:1834-1903
父:讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕
義父:讃岐高松藩十代藩主 松平頼胤
幼名:万之助
1861- 讃岐高松藩十一代藩主
従四位上権少将
妻:井伊千代子(父:大老 井伊直弼)
徳川義礼(尾張徳川家へ)
頼壽

娘(伯爵 徳川篤敬室)
(養子)頼温(父:讃岐高松藩九代藩主 松平頼恕)

松平頼壽 (明治時代)生没年:
父:讃岐高松藩十一代藩主 松平頼聡
伯爵
1903- 高松松平家当主
1933-1937 貴族院副議長
1937- 貴族院議長
妻:徳川昭子(父:常陸水戸藩十一代藩主 徳川昭武)
(養子)頼明
松平胖
生没年:
父:讃岐高松藩十一代藩主 松平頼聡
妻:
頼明
松平頼明
生没年:
父:松平胖
義父:伯爵 松平頼壽
本郷学園理事長
妻:
本郷学園理事長 頼武(子:頼治)



-世界帝王事典より

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tag : 松平 頼重 頼常 頼恭 頼恕

2006-10-14

(9)二代藩主 松平頼常(よりつね)節公

一、名刀真守(さねもり)の物語 

 松平家には、名刀真守があり重要文化財となっています。真守は、平安時代の名工・真守が作った太刀です。
 初めこの名刀は、新羅三郎義光の佩刀だったが甲斐武田家に伝わり、武田信玄や勝頼の愛刀であった。後に徳川家康に伝わり『徳川三名刀』の一刀でしたが、家康は末子の頼房に与え水戸家の家宝としていた。ところが水戸藩主となった徳川光圀は自分が弟なのに水戸本家を継いだことを悩み、この名刀を兄の頼重に譲った。以来、高松松平家の家宝となっている。

 元禄年間、将軍綱吉の側近の柳沢吉保は、甲斐武田の出と称し、松平頼常に名刀・真守を見せて欲しいと言い、そのまま返さず、太刀の脛を黄金で飾り、武田菱を持って作り変え自分のものとした。
 頼常は、将軍の誉れ高い吉保の怒りを恐れ三千の家臣の生活も考え、太刀はとられたままになっていた。やがて綱吉の没後、吉保の権勢も衰えたので、頼常は吉保の子・吉里に真守の返却を申し入れしたが、拒絶された。ところが御三家の水戸徳川綱條は、柳沢氏に命じて頼常に真守を返却させたのである。

二、頼常の生い立ち

 頼常は光圀の長子だが、頼常だけしか子がなく、出生には光圀と同じ秘密があった。光圀は、自分が次男で水戸家を継いだことで、正室にも自身の子を作らせなかった。正室が二十一歳でなくなった後も正室も側室も持たなかった。

 ところが、こんな光圀も若い頃侍女の玉井弥智との間に一子をもうけた。光圀は、家臣の玄蕃に我が子を水にするよう指示したが、光圀に知らせず弥智をかくまった。その後、この子は鶴松と名づけられ、家臣の三浦始が引き取り京に移し、翌年叔父の頼重の高松城に連れて来られ、東の丸・御茶屋御殿に入り頼重の庇護で育てられました。

 水戸藩では、初代藩主頼房が死去、将軍家綱は光圀に登城を命じ、光圀は兄頼重・弟頼元・頼隆を集め自分が水戸家を継ぐ条件に、世継に兄頼重の子・松千代を要望、頼重が固辞したところ、光圀も席を立ってしまい水戸藩のためと弟達からの進言で、頼重も折れ松千代・綱方の世継が決まる。また、光圀の強い希望で、綱方の弟采女・綱條も水戸徳川家に養子入りした。光圀の頑なな性格がよく出ている。長男綱方が疱瘡で急死の後、第三代徳川綱條が誕生する。

 頼常は、二十二才のとき頼重の隠居とともに高松藩二代藩主となるが、実際は病気がちの頼重に代わり十八才から政務を司った。頼常は、光圀と頼重の政治姿勢を受け継ぎ、名君といわれる善政を行なった。
 しかし、藩の財政は頼重時代の城郭拡張・大修理・寺社の造営・江戸城西の丸普請の手伝い等に莫大な支出のため困窮したため、家臣の録の削減や倹約を実行し藩の勝手元を立て直した。

 また、栗林荘失対事業は特筆すべきものがある。水害・干害に困窮する領民のため、栗林荘の池をさらえ山をつくり、これに従事する人々に金銭や穀物を与え、領内の奇石珍木を集め、それを搬入する人々に賞を与え困窮を救った。このときの池の浚せつで近辺数か村の灌漑が出来ました。

そして、頼常四十四才のとき忠孝を基本におき、親不孝は俸禄を与えず不忠者は厳罰に処するとし、不必要なもの、華美なものを慎み、冠婚葬祭も簡略化するようにきめた『非常倹約令』を改正・制定した。
 是により、頼常から第三代頼豊には、二十万両もの資金が譲られる事になる。

三、学問の奨励

 頼常は、中野天満宮の南隣に講堂を作り、藩士及び庶民の優秀な者に経伝を講習させ、儒者松下見林・菊池武雅・岡井郡太夫・十河順安・根本弥右衛門・雨宮三哲を厚遇し学問を奨励した。
 頼常が将軍綱吉に儒学を講じたとき、綱吉はその学徳をたたえ『進徳』の二字を贈った。学問好きが幸いして綱吉の信任を買ったのである。


天性寡黙、直温、寛栗、好学不惓聞義能徒



二代、松平頼常 生没年:1652-1704
父:常陸水戸藩二代藩主 徳川光圀
義父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
幼名:鶴丸
1673-1704 讃岐高松藩二代藩主
従四位上権中将
正室:(父:酒井忠清)
1680-1735 (養子)頼豊
松平頼侯
父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
讃岐高松藩厄介
側室:樋口氏
1680-1735 頼豊

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