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2006-10-14

(10)三代藩主 松平頼豊(よりとよ)恵公

一、生い立ち

 松平頼重の孫で、頼重と側室松野の間に生まれた頼侯(五千石)を父に持つ。
 史家の中山城山は頼豊を評して『公のひととなりは、奢侈を好み、力士を養いき、是を以て国用足らず、大いに土民を苦しめたり』としている。

二、華やかな生活 

 松平頼豊は在国中、政治の一切を大老の大久保主計に委ね、主計は徳川頼房の曾孫にあたる人物で頼豊が江戸から帰国した船が高松に着いても出迎えず、政道向きでない藩主に代わり一切を切り回した。

 歴代の藩主は、在国中は城中にいて時に栗林荘に出向いたが、頼豊はほとんど栗林荘に住んだ。掬月亭や総檜造りの奥居間もこの頃の建築で、障子一枚に百両かけたり、牡丹の花を寒さから守るための覆いに三百五十両もの費用をかけたそうです。
 庭園好きの頼豊は、江戸・小石川の水戸徳川家の後楽園の大改修にも従事、後楽園を讃岐風にしている。

三、漁場争いと名代
  
 天領の小豆島、備前の国との大槌島などとの漁場争いもこの頃です。この裁判には大岡越前守も 関わっている。

 また、頼豊は、将軍家の名代として京都に二度上洛している事から公人としては日のあたる場所にいたと思われる。

 ただ、晩年には天変地異・疫病の流行により思うようにはいかなくなる。

世は、栗林荘が大好きじゃ。小石川後楽園も栗林荘風にするぞ


掬月亭(北斗館)二の間より仙磯の岩を望む


湖上清風来る  細雨夜来やむ
此の高楼の中を愛し  座して東山の月を掬(うつ)す

栗林園二十有詠(青葉士弘)


三代、松平頼豊 生没年:1680-1735
父:讃岐高松藩厄介 松平頼侯
義父:讃岐高松藩二代藩主 松平頼常
幼名:軽千代
1704-1735 讃岐高松藩三代藩主
1716 従四位上権中将
正室:(父:大納言 正親町実豊)
側室:湯浅氏
1705-1730 徳川宗堯(水戸徳川家へ)
頼治


清玉尼
春姫(讃岐高松藩四代藩主 松平頼桓室)
娘(樋口基康室)
友姫(陸奥会津藩四代藩主 松平容貞室)


1720-1739 (養子)頼桓
松平頼芳
父:讃岐高松藩初代藩主 松平頼重
帯刀
妻:
頼熙
松平頼熙
父:松平頼芳
志摩
厄介
側室:佐野氏
1720-1739 頼恒
1721-1780 蜂須賀宗鎮(蜂須賀氏へ)
側室:渡辺氏
1737-1754 蜂須賀至央(蜂須賀氏へ)

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

tag : 中山城山大久保主計栗林荘大岡越前守漁場争い松平頼豊

2006-10-14

(11)四代藩主 松平頼桓(よりたけ)懐公

一、業績 
  
 
 藩主には、十六才で頼豊の息女春姫を稼し嗣となったが、度々飢饉や財政危機に遭遇し、藩は極度の窮乏状態であった。元禄十七(1704)年から三十一年続いた天変地異と先代の失費の後始末に追われました。

 頼桓は、二代頼常の政治を模範とし、頼豊が残した膨大な借財返却のため、財政緊縮による倹約政策として『倹約令』を出した。

 また、藩士の減禄を行い、奢侈を戒め身をもって範を示した。武士の本質は文武両道と心得、先代の道楽であった力士の住まいを除き、中野の講堂を修復、藩学を復興した。藩儒の青葉士弘に経書の講義を命じ、内容がわかりやすく、聴講者も増加した。

 しかし頼桓は、疫病にかかり二十才の若さで亡くなる。藩主になってわずか四年であった。


天変地異と先代の失費の後始末~大変だ





掬月亭より涵翠池(かんすいち)左、柘植を眺める

:掬月亭より涵翠池・紫雲山を眺む

池は千山の翠を涵(ひた)し  雲樹清流に映ず
時に春風の転ずる有り 遊魚枝上に浮ぶ

栗林園二十有詠(青葉士弘)

四代、松平頼桓 生没年:1720-1739
父:松平頼熙
義父:讃岐高松藩三代藩主 松平頼豊
幼名:亀之助
1735-1739 讃岐高松藩四代藩主
正室:春姫(父:讃岐高松藩三代藩主 松平頼豊
1711-1771 (養子)頼恭

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

tag : 頼常青葉士弘頼豊春姫倹約令頼桓

2006-10-15

(12)五代藩主 松平頼恭(よりたか)穆公(ぼくこう) 中興の祖

一、生い立ち 

二十九才で高松藩主(祖は水戸徳川頼房の三男・奥州守山藩二万石に生まれた)
 幼い頃から文武に励み、馬術・水泳が得意であった。

二、中興の祖

 政治の模範は、実父頼貞と二代藩主頼常で、特に頼常のように先ず自分が範を示し、家臣・領民にも行わせる事を心がける。

 三代頼豊の時代から天変地異が続き、頼恭の治世中も水害・旱魃に毎年のように見舞われた。その中、自ら食事も、一汁一菜を原則として倹約を守り、藩士の禄を再三再四減じ藩費を切り詰め、なし得る限りの農民救済に努めた。

 儒者後藤芝山に、後に朝廷の儀式を知る為に貴重な資料となる「職原鈔考証」を撰述させる。

 崇徳上皇六百年御忌に白峰御陵の修理。

 租税の増収の為、新田の開発を奨励、稲作に不向きな土地を開墾させ、棉栽培・甘藷栽培などを行わせた。香川郡池内・西庄・岡本の畑地耕作は綿作地帯で綿地・綿畑・綿作の地名が残る。
 
 この頃も、漁場争いが絶えず、特に坂出沖の金手漁場は、高松領と塩飽天領の境界に位置し、その解決に江戸評定所にて三年の後幕府の寺社奉行(大岡越前)ほか十一人の評定衆が署名し、八人が捺印している、八判という裁定書を残している。

三、人の登用
 平賀源内-薬坊主に任じ、栗林荘に薬草を栽培させ、甘藷キビからの精糖法を研究させた。
 梶原景山-山田郡西潟元村に塩田を築かせ、「亥ノ浜」塩田三十町を完成させた。
 向山周慶-砂糖を藩に献じ、精糖奨励の必要を建言した。
 後藤芝山-父は、頼豊公の時代に家臣の減により香西の芝山麓で帰農した。芝山は漢学を守屋義門に学び、頼恭公にとりたてられ江戸に学び、高松で藩校の創設を建言した。六代頼真のとき、中野天満宮の北に藩校の講道館と名付けた。
 青葉士弘は、経書を講堂で講じた。頼豊・頼桓・頼恭の三代に仕え、書も能くし、詩もつくった。藩主に講釈を勧め、記録書総裁になった。
 他に、菊池半隠・岡井氷室・菊池黄山・菊池五山・岡井嵰洲・岡井赤城・柴野栗山・中村文輔・岡長洲・後藤漆谷・奥村淡斎らを輩出した。
 名家老の輩出-筧速見・西尾縫殿・木村季明

頼恭公の献立『霜月の膳』

頼恭公の献立『霜月の膳』2

頼恭公の献立『霜月の膳』3


頼恭公の献立『霜月の膳』-ANNRIさんが投稿してくれました

政は、優秀な人材の登用じゃ!



鹿鳴原より小普陀を望む

棹(さおさ)して過ぐ睡龍潭(すいりゅうたん)  
朦朧(もうろう)昼開かず
雲雨をして至らしむる莫(なか)れ
是(これ)珠(たま)を採りて来らず

栗林園二十有詠(青葉士弘)

五代、松平頼恭 生没年:1711-1771
父:陸奥守山藩初代藩主 松平頼貞
義父:讃岐高松藩四代藩主 松平頼桓
幼名:帯刀、大助
1739-1771 讃岐高松藩五代藩主
1760 従四位上権中将
正室:(父:肥後熊本藩四代藩主 細川宣紀)
1743-1780 頼真
側室:荒川氏
1747-1792 頼起
頼昌
頼周
頼裕
娘(従二位大納言 徳大寺公城室)
娘(宗義暢室)
娘(堀田正順室)
娘(上野館林藩主 松平武寛室)
娘(酒井忠以室)
娘(小笠原長堯室)
娘(戸沢正産および堀長教室)

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

tag : 平賀源内梶原景山向山周慶後藤芝山青葉士弘名家老頼恭

2006-10-17

(13)六代藩主 松平頼真(よりさね)定公

一、生い立ち
 頼真は先代頼恭の長子で、江戸に生まれた。二十九才で父の跡を継ぎ讃岐守に任ぜられた。翌年領内は大風洪水による大被害にあったが、藩士の禄を旧に戻し、民政の復興に力をそそいだので領内に活気がよみがえった。

二、学問の振興
 頼真は、父と同様に学問の振興に力を入れた。苦しい財政の中、中野天満宮の北に、頼常が創建した旧こうどうのに倍する規模で学館を建設し「講道館」と号された。初代総裁の後藤芝山により「大学」が講ぜられる。以後毎月六回経書が講ぜられる。

 頼真は、学問文化に力をそそぎ、父の遺志を受け継いで民政を行ったが、その成果を見ずに三十八才で江戸で死去した。藩主としての期間は、わずか十年であった。

父の跡を受け継ぎ 頑張るぞ!



飛来峰から掬月亭を望む

南湖明月の夜 此に来って好し船を行(や)らん
恍として似たり仙客を挈(たず)え  槎(さ)に乗る雲漢(うんかん)の辺(ほとり)
栗林園二十有詠(青葉士弘)

※槎=いかだ
※偃月橋の向こうに見えるのが、栗林園の顔である仙客を待つ『仙磯の岩』。南湖は、仙磯をあらゆる方向から眺めるとよい。造園者『西島八兵衛』の気持ちが伝わってくる。

六代、松平頼真 生没年:1743-1780
父:讃岐高松藩五代藩主 松平頼恭
幼名:軽千代
1771-1780 讃岐高松藩六代藩主
正室:薫姫(父:紀伊和歌山藩六代藩主 徳川宗直)
側室:中山氏
1775-1829 頼儀






テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

tag : 講道館後藤芝山頼真

2006-10-17

(14)七代藩主 松平頼起(よりおき)欽公

一、災害との戦い
 松平頼重が高松に入封して以来、十一代二百二十七年間に七十六回の自然災害を経験している。単純計算で、三年に一度災害に見舞われその九割が讃岐特有の旱魃でした。

 高松藩の、旱魃対策はため池の新設・修築、さらに新田開発・塩・砂糖などの殖産興業策などの積極策と節約令など支出を制限する消極策のどちらかでした。

 頼起は、父の頼恭や兄の頼真らの災害対策が効を奏していた時期に藩主についていた為、恵まれていました。それと共に、別所旧九兵衛包好のような模範庄屋がおりリーダーシップを発揮し、農民たちの生産意欲を持続させた。

 頼起が高松藩を継いだ翌年平賀源内が亡くなり、三十四才から十二年間藩主の座にあった。(分別盛りの殿様) 就封後初めてお国入りした頼起は、藩士たちに祝いとして百石に付き三石を与えるというふるまいをしている。

 また全国的に「天明の飢饉」といわれる時期に、頼起四十一才のとき宗家の水戸家から十七才の豊姫が輿入れし、その祝儀に農民に米や栗九千六百石を与えている。

 その二年後、三年続けて「五穀実らず」という大干ばつに襲われた時も藩が五千五百石領民に貸し与え、内三千石は三ヶ年の分割返済で、残り二千石は返済棚上げという大英断を実施した。

 この頃、讃岐出身の柴野栗山が老中松平定信のブレーンとして幕府に仕え活躍する。

 頼起は、性格が仁慈で欲が少なく、柔軟なところがあったが、武術は新田宮流の居合いの奥義を極め、趣味は義太夫・浄瑠璃を好み、能・猿楽は江戸や大坂にお抱えの太夫や狂言師がいた程でした。

 松平家十一代の内、六代~八代は讃岐の血流で占められ、農民たちに、極めて寛大であった。頼起は生来穏やかな殿様で、弟の大久保一学(国家老の大久保家に養子)は、横暴な振る舞いが目立った。家老として独裁色を強め、藩内に不穏な噂が流れ、お家騒動の一歩手前のところまで来ていたともいわれた。

 頼起は、四十六才で死去するが、災害多く多難な時期ではあったが、幸いにして藩に蓄積があったので平穏な人生を過ごすことができた。


父や兄はありがたい!  余は民に優しいぞ


七代、松平頼起 生没年:1747-1792
父:讃岐高松藩五代藩主 松平頼恭
幼名:鼎之助、帯刀
1780-1792 讃岐高松藩七代藩主
1787 従四位上権中将
正室:述姫(父:常陸水戸藩六代藩主 徳川治保)
1775-1829 (養子)頼儀

tag : 天明の飢饉頼起大英断讃岐の血流別所旧九兵衛包好柴野栗山

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